ただ話したいだけなのに
再会に乱れる心
大学時代の後輩、山下に強引に誘われ《スヴニール》というクラブに出向いた真木(まき)一樹(かずき)はテレビでしか見たことのないような華やかな空間に一瞬戸惑ったが、懸命に平静を装い、物珍しそうにしないことを意識して彼に続いた。
シャンデリアがダイヤを散りばめたような輝きを放つ中、目に見える女性は皆、美しく、細い腕がとても魅力的だった。
テレビ局で営業をしている山下は昨年アナウンサーと結婚したのだが、すれ違いが多く、時々一樹の家に上がり込んでは愚痴をこぼしていた。
しかし、彼は一年に何億円ものCMや、後援を扱う人間でいつも羽振りがよく社会人としての彼には勢いがあった。
その彼が、接待で予約を入れていたにもかかわらず、相手方からキャンセルされてしまい、店の娘(こ)の顔を潰(つぶ)すわけにはいかないので一樹を強引に誘ってクラブに出向いたのであった。
案内されて席につくと、しばらくして彼の隣に一人の女性がやって来た。
「亜紀と申します。初めてですよね、よろしくお願いします」
名刺を差し出して挨拶した彼女は隣に座ると水割りを作り始めた。決して飛び抜けた美人という訳ではないが、セミロングの髪が美しく、白いうなじを支える細い肩が妙に切なくて、振り向いたその涼しそうな瞳が何故か懐かしさを呼び起こしてくれた。
「ほんとうの名前は奈津子って言うのよ」
そう言うと彼女はチラッと彼を見て微笑んだ。
【奈津子】と聞いて、一瞬どきっとした彼は、どこか記憶のある彼女に見入ってしまった。
「あなたは? 下のお名前だけでいいから教えて下さる?」
「えっ、一樹です」
「いいお名前ですね、漢数字の一に樹木の樹って書くんですか?」
「えっ、あっ、はいそうです」彼は驚いて答えたが
「あっ、ちょっとごめんなさい」彼女はそう言うと慌てて席を立った。
しばらくして帰って来た彼女は「ごめんなさい」と言って再び席に座ると
「真木君よね」微笑んで覗き込むように彼に尋ねた。
「えっ、もしかして、下山……奈津子さん?」
驚いた一樹に自信はなかったが、自分の名を知っていることに加えて、奈津子と名乗る女性、そして記憶の奥に残っていた彼女の瞳がフラッシュバックして、彼は恐る恐るその名を口にしてみた。
「うれしい、覚えていてくれたんですか?」
彼女は少しはしゃぐように瞳を輝かせながら彼の太ももに静かに手をのせた。
「そりゃ、覚えていますよ」
彼は呟(つぶや)くように言うと恥ずかしさから俯いてしまったが、この偶然に何とも言えない幸福感をかみ締めていた。
「うれしい、高校の卒業以来だから八年くらいかしら……」
「そうですね」
顔を上げて彼女を見つめた彼は、その笑顔と瞳に触れて胸が締め付けられるようだった。
初恋の女性、当時は高嶺の花だと思っていた女性が隣に座っている…… そのことだけで彼は、もう天にも昇るような思いであった。
「でも、よくわかりましたね?」不思議そうに彼が尋ねると
「そりゃわかりますよ、初恋の人なんだから……」
彼女は彼を見つめて微笑んだ。
「はははっ、お上手ですね、本気にしますよ」
驚いた彼は平静を装ったが、心は大きく乱れていた。
「えー、何を言っているんですか、上手(じょうず)を言ってもお店には来てくれないでしょ? 確か、丸菱商事の総務課にお勤めですよね?」
「えーっ、何で知ってるの?」彼は目を見開いて驚いた。
「失礼ですけど、営業なら接待もあるでしょうけど、まだ二十六才、事務職のサラリーマンのお給料ではここには通えないですよ、そのあなたに無理を言うつもりはないですから……」
顔を少し近づけてさわやかに言う彼女はまっすぐな目をしていた。
「そりゃ、そうだ」
「ごめんなさい、失礼なこと言ってしまって…… でも本当に初恋だったんですよ。覚えているかどうか知らないけど、高校二年の夏休み前に、夏休みにはあなたとどこかへ行きたいと思って、意を決して声をかけたんですよ! 私にとってはすごいことだったのよ」
彼女は昔を思い出すように語りかけたが、一樹はそのことをはっきりと覚えていた。
「確か、小説を読んでいたから『本が好きなの?』って聞いたら『時々読むだけ』って、私の顔も見ないで逃げるように帰って行ったのよ。私は終わった、って思ったわ。小学校の時から思い続けた初恋だったのに、たったの一分だったのよ」
彼女は少しだけすねて見せた。
「ごめん、はっきり覚えているよ、終業式の日だった。家へ帰ってからもうれしくて、夢のようだった。でも、恥ずかしくてその場から逃げ出したことを直ぐに後悔したよ。せっかく声をかけてくれたのに、チャンスだったのに何か話せばよかった、そう思って後悔したよ」
彼は遠くを見つめるように当時を振り返ったが、何とも心地よい一瞬であった。
「それってなあに…… 私、嫌われていたわけじゃないの?」
驚いた彼女が、目を見開くと少し口をとがらせるように彼を覗き込んだが
「まさかー、あの時代に君のこと、嫌いなやつなんかいなかったよ。俺だって大好きだったよ。陰からこそっと見るのが楽しみだった。学校へ行く唯一の楽しみだったのに…… 」
彼は、彼女の顔がすぐ近くにある気配を感じてはいたが、目を向けるとすぐそこに現れるであろう彼女の瞳に直面する勇気がなかったため、正面を向いたまま優しく反論した。
「それ本当なの? 上手を言ってもここをただにはできないよ」
突然襲ってくる彼女の愛くるしさに彼は一瞬、 かわいい! と思ったが
「それはいいよ、彼が払うんだから……」
となりでお気に入りの娘と話している山下を指さした。
彼はしばらく沈黙の中で考えていた。
「男なのに今さらって思うかもしれないけど、あの時、もし逃げないで君に応えていたら何か変わっていたのかなあ?」
逃げ出してしまった後悔に、彼は尋ねないわけにはいかった。
「そりゃそうですよ、私は夏休みにどこか行きましょうって誘う決心していたんだから、二人のお付き合いが始まったかもしれないわよ」
帰宅した彼の脳裏から奈津子の笑顔が消えることはなかった。
二十六歳になってこんな切ない思いに陥るとは想像したこともなかったが、彼女との再会が平凡な彼の日常に灯(ひ)をともしてくれた。
しかしその灯はまだ足元を照らしているだけで、この道がどこへ続くのか示してはくれなかった。
商社の総務に勤める真木(まき)一樹(かずき)は、学生時代から交際していた亜由美と大学を卒業するとすぐに結婚したのだが、当時からデザイナーとしての才能を開花させていた彼女は日々時間に追われ、夜はいつも遅く、帰宅しないことも珍しくなかった。
最近は休みもほとんどなく、彼が朝もぎりぎりまで寝ている彼女とゆっくりと話すことはあまりなかった。
「子供は仕事が落ち着いてからね」
彼女がそう言い続けて既に四年が経過していた。
流れ始めた過去の時間(とき)
その日以来、彼はいつも奈津子のことを考えていた。
( 彼女の家はかなり裕福だったのに、どうしてホステスなんかしているんだろう。今はどんな生活しているんだろうか、もう一度店に行ったら笑われるだろか…… )
会社へ出向くと、課長を入れて十人しかいない総務課には、三名の女性がいた。その内の一人目は彼の隣に席のあるお局(つぼね)様(さま)であったが、この人は若い男が嫌いなのか、いつもちくちくと小言をいう人であった。二人目は向かいの二つ奥に席のある三十歳の女性であったが、奈津子の二人分ぐらいある体格のいい女性で、良い人なのだがちょっと一樹のタイプではなかった。そして三人目は、彼の同期の女性で、身長は百七十㎝近くあるのだが、スリムで色白の美しい女性であった。鼻筋がきれいに通っていて、やや吊り上がった瞳が大きく、クレオパトラを思わすような髪形は、総務課ではやや不釣合いのようにも思えたが、それでも社内には彼女のファンがかなりいるらしい。
ただ、この人は生(なま)の男性には興味が無いらしく、時間さえあれば小説を読んでいる。カバーでタイトルが見えないため、「何を読んでいるの?」と一度訪ねたことがあるが怖い目つきでしばらくにらまれた後
「関係ないでしょ、仕事以外で絡まないでくれる!」
彼は冷たくあしらわれ、その後は意識して関わらないようにしていた。
彼の日常はこうした女性達と関わっていたため、先日訪れたクラブはあまりにも衝撃的で、夜は奈津子を思い浮かべ、職場へ行くと現実に引き戻され、また家でただ一人奈津子を思う……
そんな繰り返しの中で、その翌週の火曜日、耐えられなくなった彼は、再び店を訪ねた。
慌てて席にやって来た奈津子は
「ありがとう、今日は指名が入っているからあまりここに居られないの、ごめんなさい。でも、もうお店に来るのは止めて、名刺の裏に携帯番号書いていたでしょ。月曜日はお休みだから外で会いましょう。私も時間を気にしないでもっとお話しがしたいから…… 電話して……!」彼女は囁(ささや)くように言うと寂しそうに微笑んで席を立った。
帰宅すると、ゆっくり話ができなかったことにいくらかの不満は残ったが、それでも外で会おうと言ってくれた彼女の思いが途方もなくうれしくて、彼はベッドに横たわり一人で微笑んでいた。
( 早めに電話して月曜日の約束をしようか、でもほんとに会ってくれるのか? やはり月曜日まで待つか )
そう思ってはみるものの、翌日もまた彼は同じことを考えていた。
一日一日がとても長く、まるで来週に迫った修学旅行を待つ子供のような思いであった。
その日曜日、久しぶりに休みの取れた妻が昼前に起きてくると
「ねえ、どこかに出かけない?」と声をかけてきた。
実は疲れがピークに達していた彼女は家でゆっくりしたいと思っていたのだが、あまりにも夫をないがしろにしていることに罪悪感を覚え、彼を誘ったのである。
だが……
「ごめん、ちょっと今日中に整理したいものがあるんだ、遠慮しないで出かけて」
パソコンに向かったまま、振り向きもしないで答える夫に
「そう……」彼女は何か違和感を持ったが、再びベッドに入った。
彼は奈津子との時間が流れようとしているこの川に、妻との時間を交錯させたくはなかった。
翌日の月曜日、物欲しそうに見えるかもしれないと思ったが、逃げた高校時代を思い出して、遠慮はしない……そう決意していた彼は、会社が終わると直ぐに奈津子に電話を入れた。
「真木です。会いたいから遠慮しないで電話しました。店の外でも会ってくれますか?」
「もちろんです。とてもうれしい!」彼女の笑顔が目に浮かぶようであった。
奈津子がお気に入りの和食の店『彩(いろどり)』の小さな座敷で向き合った二人は、まだぎこちなさを否めなかったが、それでも静かに思い出のページをめくり始めた。
「ここのお勧めはね、カレイのから揚げ、お肉は嫌いでも、お魚は大丈夫でしょ」 ごく自然に話す彼女だったが
「どうして知っているの? 不思議なことばかりだよ」
「そりゃー初恋の人なんだから、何でも知っているわよ」奈津子が微笑むと
「でもどうしてマドンナの君が俺のことなんか……」
彼はそのことが不思議でならなかった。
「マドンナはよしてよ、中学の頃までは漠然とした思いだったの、でも高校生になってサッカー部に入ったあなたは試合に出ることができなくても一生懸命に仲間を応援していた。そのあなたが一番かっこよかった。だからとにかくあなたとお話しがしたかったの。あなたが何を考え、何を思うのか知りたかったの。恋だとか、愛だとかとは少し違っていたように思うけど、とにかくお話がしたかったのよ」
「そうなの……」彼は少し照れくさそうだった。
「あなたは、どうして?」奈津子が尋ね返した。
「何がって聞かれても困るけど、見ているだけで幸せだった」
「そうなの、でもうれしい! あの時、終わったって思った私がばかだったのね。男の子があんな場面で恥ずかしがるなんてこと、考えたこともないから…… 二人とも初心(うぶ)だったのね」
優しく語りかけてくる心地よさに
( この人と一緒になりたかったなー )
どうにもならない九年前を思いだして、彼は今さらながらに逃げ出したことを悔やんでいた。
「神様がいるのかどうか知らないけど、でも、もしいるんだったら性格悪いよね」
彼は思いを口にしてしまった。
「逃げ出したこと、後悔しているの?」彼女が悲しそうに尋ねると
「今、こんな幸せをくれるんだったら、あの時に欲しかった……」
彼女の気持ちを知ってしまった今、この時間を楽しむことよりも、逃げ出した過去を悔やむ思いの方が大きくなろうとしていた。
「奥様と上手くいっていないの?」
そう尋ねる彼女の表情から、彼はその心を読み取ることはできなかったが
「上手くいっているのかどうかさえ、わからない」
少し吐き捨てるような感じの中で、彼は俯きがちに答えた。
「今日、奥様は大丈夫なの?」
「ほとんど家にはいないんだよ。夜は遅いし、帰ってこないこともある。結婚しているって言ってもただ一緒の所に住んでいるだけだよ」
「そう、みんな大変なのね」
彼女の言葉は、同情的にも思えるし、事務的な感じに取ることもできた。
「でもね、あの時、つながらなかった糸だから、今、こうしてアルバムの前に二人でいるのかもしれないよ。もしあの時、糸がつながっていたら、お互いに幻滅して、この歳になって再会しても、何でもなかったのかもしれないよ」
諭すように話す彼女の瞳がとてもさわやかで、昔、陰から見ていた彼女もこんな瞳をしていたことを思い出すと
「すごいこと言うね、何か小説の一節に出てきそうな表現だね。昔の君がいるように感じてしまう…… いつも陰から見る君は、笑顔がいっぱいで太陽みたいだった」
彼は微笑んではっきりと思いを言葉にした。
「ありがとう、あなたがそんな思いで見ていてくれたなんて、それを知っただけで私は幸せ! だから昔を悔やむのはよしましょうよ、幻のアルバムが色あせてしまうよ」
「そうだね、今、君とこうしていられるのが夢みたいなことなんだから、この時間を無駄にしたくないよね」
彼が優しく微笑むと彼女はうれしくなって彼を見つめ続けた。
その瞳に耐えられなくなった彼が
「高校二年の夏休み、どこへ行こうと思っていたの?」と尋ねると
「ホテル」彼女は笑顔で答えた。
「えっー!」彼が驚くと
「嘘よ、どこでもよかったの、ただお話しする時間が欲しかったの、だから映画以外ならどこでもよかったの」
「おもしろいね、映画館では話ができないから?」
「そう、大当たり」
「来週の月曜日は休みなんだ、どこかへ行かない?」意を決した彼の言葉であった。
「うーん、休みだったら家に来る?」違和感なく誘ってくる彼女に驚いたが
「いいの?」彼は心が躍り出していた。
「いいわよ、家だったら、ゆっくりお話しできるじゃないの……」
そして、また長い一週間が始まった。
結婚して以来、衣服のこと等は考えたこともなかった彼が
( どんな格好で行こうか、スーツなら簡単だけど、まさかスーツという訳にはいかないよな…… )懸命に悩んでいた。
しかし、自分が妻よりも先に出社することを考えれば、スーツで出かけるしか道がないと悟った彼は、先日買った新しいスーツを着ることにした。
そしてようやくやって来た月曜日の朝、新品のスーツを出している夫を見て、妻は、おっ、今日はおニューだ! その時はそう思っただけであったが
「今日は取引先に行くから、遅くなるかもしれない」そう言って出かけた夫に何か不安を感じた。 彼がそんなことを言って出かけたのは結婚以来、初めてのことであった。
彼は、二軒の喫茶店を廻り、十一時になったのを確認すると、彼女のアパートを訪ねた。
「じゃあ、お昼前に来てね」
そう言って別れた先週の月曜日から彼は『昼前』の意味を考えていたが、少しでも早く彼女のもとへ行きたい彼は、それを十一時と結論していた。
彼女の住まいは、ごく普通のアパートで、店で見る彼女の華やかさからすればやや違和感があったが、そんなことはどうでもよかった。
ドアフォンを鳴らすと、彼女の明るい声に迎えられ彼は部屋に入って行ったが、彼の妻は実家暮らしであったため、彼が一人住まいの独身女性を訪れるのは初めてであった。
広々とした一LDKの住まいは、女性の部屋にしてはシンプルであったが、清潔感にあふれ、一目見ただけで心が穏やかになっていった。
彼が部屋の奥にあるソファーへ促され、スーツの上着を脱ごうとするとそれを手伝った彼女は、それをクローゼットにしまってくれた。女性にこんなことをしてもらったのは初めてで、こんな心地よさからスタートした一日は彼にとっては夢のようであった。
それは、かつての憧れの女性と二人きりで時間を過ごしているということもあったが、その折々に垣間見ることのできる彼女の心遣いが、彼にとってこの一室を異質空間にしてしまった。
「コーヒーはモカがいいんでしょ」微笑みながら語りかけてくる彼女に
「えっ、そんなこと知っている人なんていないと思うけど……」
「高校の時、自販機の前で言っていたわよ、この酸味が何とも言えないって」
「えー、そんなこと言っていたのっ、渋い高校生だったんだなー」
そんなことを言っていた自分にも驚いたが、それを未だに覚えている彼女にも不思議さを感じないわけにはいかなかった。
「私、なんかストーカーみたいね」
「君にストーカーされるんだったら、いつまでもして欲しいよ」
昼は近くに有名なラーメン店があることを知っていた一樹があらかじめリクエストしていたので二人で出かけた。
店に入るとカウンターに座った二人はメニューに目を向けたが、一樹が「俺は醤油チャーシューメン、ネギをトッピングするけど……」それを聞いた奈津子は驚いた。
「えっ、私は醤油ラーメンにコーンをトッピングで……」
彼が注文した後
「チャーシューは大丈夫なの?」不思議そうに奈津子が尋ねた。
「確かに肉は駄目なんだけど、肉の臭いがしなければ大丈夫なんだ」
「そうなの!」彼女は目を見開いて彼を見つめた。
「奈津子さんは、嫌いなものはないの?」
「私はシイタケだけはだめですね、特に炊いた時のあの臭いが……」
「えっー、俺も同じ、ちょっとあの匂いは勘弁してよっていう感じだよね」
彼が笑いながら言うと
「それも知らなかったけど、同じものが嫌いでうれしい、私たちって本当はよく似ているのかもしれないですね」 彼女が優しく覗き込むと
「全然似ていないよ、月とスッポンだよ」
彼は奈津子がいない日常では何かを諦めているように生きていた。
「やっぱりねー、私はスッポンよねー」彼女が微笑んだ。
「何言っているの、逆だよ」
「いいのよ、でもずーっと一樹さんを見つめてスッポンみたいだったから……」
「そんな意味じゃないよ」
「いいの、それでいいの!」
彼女が笑顔で話すと周囲がぱっと明るくなる。一樹はそれが不思議だった。
店を出ると、春のさわやかな風が一時の幸福に身を任せるふたりを優しく包み込んでいるかのようだった。
緩やかに歩む一樹の右腕に、彼女は左手を絡めると「幸せ……」そう言って彼の右肩に頬を預けた。
彼は初めての経験に一瞬驚いたが、この上ない幸せに酔いしれていた。
その光景はまるで結婚を前にしたカップルのようで、すれ違う人達の目にも全く違和感はなかったが、その時、ふとタクシーに乗り込もうとしている一人の女性と目が合った。丸菱商事総務課のクレオパトラであった。
( なんで彼女がここにいるんだ! )
彼はとっさに目を背けて別人を装ったが、奈津子は気づいていた。
「きれいな人だったわね、知り合いなの? 大丈夫かな?」
「同じ職場の同期……」
「えっ、やばいでしょ、奥さんに伝わらない?」
「いや、別人と思ったかもしれないし、妻は会ったことないから大丈夫だと思う」
「えっ、じゃあ奥さんだって思われたかもね」
「確かに、勘違いされたかも、ごめん」
「全然、むしろ私はうれしいくらい。今度会ったら真木の家内です、主人がいつもお世話になっていますって、挨拶してみようか?」
「けっこう楽しいかもね」
「でもほんとにきれいな人、クレオパトラかと思った」
「会社ではみんな、そう呼んでいるよ」
「やっぱりね…… 恋人はいるのかな?」
「生身の男には興味ないらしくて、いつも本を読んでいるよ」
「そうなの……」
「一度、何を読んでいるのって聞いたら、にらまれて『関係ないでしょ、仕事以外で絡まないでくれる!』って叱られて……」
「そうなの、何かエキゾチックな感じがするわね」
部屋に戻った二人はコーヒーを飲みながら再び穏やかに流れる時間に身を任せていた。
一方的に話す風変わりな同級生や、生徒に目を合わすことなく授業をしていた教師等、一樹が話すその思い出話に彼女は微笑みながら聞き入っていた。
「君のことも教えて、俺は陰から見ていただけで実のところよく知らないんだ」
「先週の月曜日にね、どうして好きになったのかって聞かれて、『試合に出ることができなくても一生懸命仲間を応援していたあなたが一番かっこよかった』って言ったでしょ」
「うん」彼は彼女を見つめたまま頷いた。
「でもね、思い出して考えていたら、やはり色々なことがあって気持ちがそこまで膨れ上がっていたのよね…… 六年生の時、泣いている友達の横に座ると、その子をいじめた男子から偽善者って言われて涙が出そうになったの。でも真木君が『やめろ!』って言って彼を睨んだの、私にはその『やめろ』の後に『彼女はそんな人じゃない』って言うあなたの心の声が聞こえたような気がしたの、そんなわけないけど……」
「田中だろ!」
「えっ、そう、確か田中君だった、覚えているの? 」
「よく覚えているよ、ただ心の声はちょっと違うけど…… 」
「えっ、何か思っていたの? 教えて、お願い!」
「恥ずかしいよ」
「いいじゃない、もう十四~十五年前のことよ、お願い、絶対知りたい!」
「やめろ、俺の女神に何言っているんだ! って言いたかったんだ」
彼は恥ずかしそうに答えた。
「ええっー、ありがとう、もっとすごいじゃない、私が思っていたことよりすごいじゃないの、うれしい、ほんとにうれしい、ありがとう! 」
驚いて、一瞬両手を軽く顔の前で合わせ目を見開いた彼女は少女のように微笑んで、過去のことをまるで現実のようにはしゃぎ、一樹もまた彼女の過去の思いを現実のように錯覚し、重なり合った過去の影と影が明かりの中に溶け込もうとしていた。
「それにね、中学三年の秋だったかな、本屋でどちらの本にしようか悩んでいたらあなたは『そんな時は両方買うだよ』そう言ってくれたの…… うれしかった。あなたはそんな風に考えるんだって思って、とてもうれしかった」
「本屋で声をかけたのは覚えているよ、俺も話がしたくて……」
「ありがとう、ほんとによかった! あなたに再会できて、ほんとに良かった」
「俺の方こそ」
「だけどね、今、記憶をたどっていて、あなたのことを何となく暗く感じたり、恐く感じたりしたことがあるの、あなたはいつも一人だったでしょ、何かあったの? 話したくなければいいのよ、だけどちょっと気になったの……」
「そうだよね、あまり人と関わるのが好きじゃなかった。何人かで友達の家へ遊びに行った時、そこの母親が何故か俺だけに冷たくて、俺より遠くから来ている奴だっていたのに『一樹君は遠いからもう帰ったら……』なんて言われて…… 他の連中はみんな金持ちで、うちの家は貧しくて、父親がパチンコ好きで仕事は休んでばかり、母親も働いていて、いつも金のことで喧嘩をしていた。だからその母親からすれば、俺には来て欲しくなかったんだろうなって思ったよ」
「ひどい! もういいよ、ごめんなさい、いやなこと思い出させて……」
「いや、君には聞いて欲しい、そんな家が結構あったし、友達もだんだんと絡んでこなくなって…… でも貧乏だから仕方ないって本気で思っていたんだよ」
「……」
「だんだんと人と話したくなくなって、一人でいる時が、一番気が楽だった。親父も高校の頃には少し真面目になって、お袋も頑張ってくれたから何とか大学へ行くことはできたけど…… 大学へ行っても、あまり人と話す気にはなれなかった。こんな人生なんだよ、だから、特におふくろは大事にしたいって思っているんだけど……」
「けど、どうしたの?」
「いや、何でもない……」
夕食後、片付けを済ませた彼女が、彼の横に座ると突然
「ねえ、初恋の女、抱いてみる?」彼の目を見ずに静かに囁(ささや)いた。
切なそうな彼女の思いに、逃げたくない、 彼はそう思ったが、ここまでの彼女との夢のような時間を黒く染めてしまいそうな不安を感じて
「いや、止めておく、ごめん」彼は俯いて答えた。
「いいのよ、私のことを思っていてくれたあなただから、もしそんな思いがあるのならかなえてあげたい、そう思っただけだから気にしないで……」
「何か、君を抱いたら全て終わってしまいそうで…… ごめん」
「謝らないで……! 嫌われたとは思っていないから……」
「……」
「むしろ、うれしい、あなたはやはり思っていた通り誠実な人……」
「そんな大したものじゃないよ、臆病なだけだよ」
彼は過去の中で深く沈み込んでしまいそうになっていた。
時計は既に八時を回っていた。
彼女は「抱いてみる?」と尋ねたことで二人の過去に現実を交錯させてしまったことを少し後悔していた。決して抱かれたいと思っていたわけではなかったが、彼という人間をもっと知りたいという思いが緩やかに流れる時間の中で自然に言葉にのってしまったのであった。
しかし彼が現実を選択してしまえば、彼女にはそれを拒む自信はなかった。
結果は彼女の想像した通り彼はそれを拒んだのだが、そのことが彼自身の過去に影を落とし始めていることに気が付いた彼女は
「あのさ、一つだけ聞きたいんだけど……」と切り出した。
「いいよ、何でも聞いて」
「私はね、何度も言うけど小学校の頃からあなたにあこがれていて、ずっとお話ししたいって思っていたのに、男性に対しては奥手というか、勇気が出せないって言うか、思い切って話しかけた高二の時だって、逃げようとするあなたの背中に尋ねればよかったのよ、『私は嫌われているの?』って、でもできなかったし、その後も二度目のトライのチャンスだっていくらでもあったのに、やはりできなかった。そんな私としては、あなたが奥さんとどのようにして付き合い始めたのか、そのことがとても気になるの……」
彼女の最も知りたい部分であったが、二人の時間に彼が妻を思い出してしまうのが不安だった彼女は、ここまで耐えていた。
しかし、過去の中で彼が沈み込んでしまうことを恐れた彼女は彼の妻の話を切り出した。
「いいけど、聞いたら笑ってしまうよ」ふと、我に返った一樹は微笑んで答えた。
「えっ、そんなに面白いことがあったの?」
「おもしろいというか、馬鹿みたいって言うか……」
「教えて、お願い」彼女は彼を引き戻すことに懸命だった。
「内の大学は、専攻は三年からで、入学時は文学部でみんな同じなんだよ。だから芸術学科志望の彼女と英文学志望の俺だったけど、同じゼミになったんだ。一年の後期あたりから彼女が絡んでくるようになって…… 」
彼は当時を思い出しているようだった。
「絡んでくるって?」彼女も食いついていく。
「例えば、食堂で飯食っていると俺の前に座って、俺の食事を勝手につまんで食って『これおいしい、私もこれにしよっ』っていうような感じで…… カフェでコーヒー飲んでいても、やっぱり俺の前に来て、勝手に俺のコーヒー飲んで『うわっ、甘っ』とか言って、ブラック注文して、とにかく俺の前によく現れて、最初は『何だこいつ』って思っていたんだけど、話しているとおもしろくて、その内にはアパートに押しかけて来て勝手に泊まるし、洗面道具や茶わんなんかも持って来て…… ある日、授業の合間に眠りたいから鍵よこせって言われて、彼女は自宅から通っていたのでけっこう遠くて、仕方なく貸したら勝手に合鍵作られて、もう滅茶苦茶な女だった」
そこまで話すと、彼は何かを思ったのか、俯いてしまった。
「すごく楽しい人なのね、何故かあこがれてしまうわ」
彼女も瞼に光景を思い浮かべているかのように微笑んでいた。
「でも、その頃からドレスのデザインでいくらかの収入を得ていることを知って、ちょっと見方が変わってきて、そのまま付き合っていって、四年の中頃だったかな、『卒業したらすぐに結婚するわよ』って言われて……」
「そのまま結婚したの?」
「そうなんだけど、なんか…… 強姦されたって言うか、押さえつけられて身動きできない感じ?」
彼は表現に苦しんだ。
「えっ、どういうこと? 女性なのに力では勝てないでしょ、力づくで抑え込まれたわけじゃないでしょ?」
「力づくって言うか、言葉づく?」
「何、それ?」
「彼女が『あなたなんて何の取り柄もないんだからね、わかっているの? 空を飛べるわけじゃないし、百m十秒で走れるわけじゃないし、あなたの取り柄はたった一つだけ、私と巡り会ったことよ、そのたった一つの取り柄を捨てるつもり?』って言うんだ」
「ははははっ、お腹が痛い、おもしろい!」奈津子は涙を流して笑ってしまった。
「もう滅茶苦茶だろ?」彼も笑っていた。
「すごい人なのね、やはりそういう人じゃないとあなたを射止めることはできないのね、 でも楽しい人ね」
( かなうわけがない、そんなすごい人に勝てるわけがない、大事に思われているんだ…… )
彼女はそう思うと、複雑な思いの中でふっと遠くを見つめて小さく息を吐いたが、それでも、笑顔を取り戻した彼がうれしくて、その夜は満面の笑みで彼を送り出した。
その翌日、昼休みになるとすぐにクレオパトラに話しかけられた彼は驚いた。
「ねえ、長崎明子って知っている?」
「えっ、誰? それ……」
「あっ、そう。やっぱりね……」
「どうしたの?」
「もういいわ!」
不可解な質問に彼は頭を傾(かし)げたが、そのことよりも彼女に話しかけられたことの方が謎であった。
彼女はどこに
そこから約一ヶ月、彼の幸せな月曜日が続いた。
しかし、すれ違いが多くてもさすがに妻は彼の異変に気づいていた。
最初は、驚きとともに まさか…… という思いがあった。
ただ違和感を持つたびに冷静に考えてみると、自分の罪を感じないではいられなかった。食事を作ってあげることもなく、洗濯や掃除も知らない間に彼がやってくれていた。 最近では、妻として夜の務めも果たせていない、何が妻なの…… 彼女は自分でそう思ってしまった。
( 何もしてくれない妻なんて愛想つかされても仕方ない、好きな人ができたの……? )
彼女はそう考え始めていた。
しかし、水曜日の昼休みに奈津子からの電話を取った一樹は突然の話に呆然(ぼうぜん)とした。
「私、北海道に行こうと思っているの、もう私たちのアルバムはここで閉じましょう。それがお互いのためだと思う」
電話口の彼女は冷静に話した。
「何故なの、北海道で何するの?」
しかし一樹は少し責めるような口調になってしまった。
「知り合いから店を手伝ってほしいって言われていて……」
「やめてくれ、結婚しよう、妻とは別れる。一緒になろう」
彼は必至だった。突然の別れ話に彼は動揺してしまって、二人の流されている川に溺れようとしていた。
「何を言っているの、女性で家庭を壊した人が幸せになれるはずないでしょ、一度ちゃんと奥様と向き合ってお話ししなさい」
「君はそれでいいのか?」
「私は大丈夫、あなたとお話ししたいという昔からの願いがかなったからもう大丈夫、二人で覗き込んだアルバムはとても楽しかった。今はあなたの幸せを願うだけ。このままだといつか二人は泥沼に浸かってしまう。私たちが楽しかったのはアルバムの中だったから。現実の世界だとこうはいかないわよ、 《スヴニール》って言うのはフランス語で、《思い出》って言う意味なの、思い出って言う名の店で再会した私たちは、何かを現実にしてしまう前に、思い出の内にお別れしましょう」
流れるような言葉に惑わされながらも彼は懸命に説得したが、どのように話しても彼女は心を変えなかった。
翌日アパートに行ってみたが、既に彼女は退去していて携帯電話もつながらなかった。
再び暗闇の中へ戻ったような感覚の中で彼は
( もしかしたら二週間後、中学校の同窓会に来るかもしれない、彼女も出席すると言っていた )
それを願って、彼は二週間を耐えた。
その日、かすかな望みを持って出かけた同窓会で彼は我を失ってしまった。
「開会に先立ちまして、二年前に亡くなられました下山奈津子さんのご冥福をお祈りいたします。皆さん、黙とう」
冒頭の司会者の言葉に
( えっ、何だって、そんな馬鹿な! からかわれているのか…… )
彼は頭の中が真っ白になってしまった。
黙とうを終え、頭の混乱した彼が呆然(ぼうぜん)としていると奈津子の親友だった陽子が傍に来て
「奈津子はずっとあなたのことが好きだったの、知っていた?」
語りかけてきたが彼は小さく頭を振った。
「亡くなるまであなたとお話しがしたかったって言っていた…… 私が連絡するって言ったら、こんな姿は見られたくない、あなたにだけは見られたくないって……」
彼女は瞼に蘇って来た親友の悲しく切ない最期を思い浮かべ涙ぐんでいた。
「俺のこと、からかっている?」彼が冷たい視線を浴びせると
「どういうこと?」彼女も少し機嫌を損ねていた。
「俺、この前まで何度も彼女に会っているよ、彼女は生きているよ! 俺のこと騙しているの?」
「何を言っているの? そんなことあるわけないでしょ。私はあの娘(こ)が亡くなる時に手を握っていたのよ、あの娘(こ)の最期の思いを汚さないで!」
( 何がどうなっているんだ、俺は夢を見ていたのか…… そんなはずはない、確かに彼女の手のぬくもりを感じた、こんなことがあるはずがない、彼女は幽霊だったのか…… 馬鹿な…… 俺がおかしくなったのか! )
頭が混乱してしまった一樹は、もうこれ以上人前で立ち続けている自信がなかった。
「ごめん、でも本当なんだ。俺、おかしくなったのかもしれない。ごめん、帰るわっ」
そういう一樹の表情に、陽子は
( 本当におかしくなったのか…… あっ、彼も好きだったのか! )
そう思って少しうれしくなった。
会場を後にした彼は直ぐに後輩の山下に電話を入れた。
『山下、二か月前、お前に連れられてあそこのクラブ、《スヴニール》へ行ったよな?』
『ええ、楽しそうに女性と話していたじゃないですか、同級生か何かだったんでしょ?』
『ありがとう』
『先輩、どうしたんですか?』
『いやいいんだ、ありがとう』
彼は二~三日、懸命に思い出していた。
( 現実であることに間違いはない…… 何がどうなったのだろう…… )
その週の土曜日、彼は実家に帰り両親の様子を見た後、奈津子の実家へ行き、門の前に立ってみたがチャイムを鳴らす勇気はなかった。
呆然(ぼうぜん)とした思いの中で彼は完全に我を失い、方針状態になっていた。
妻の思い
翌日の日曜日、妻がちゃんと話したいと言って彼に向き合ってきた。
( この仕事が済めば、これさえ終わればって、いつもそう思っていたのにずるずるとここまで来てしまった。四年もの長い間、彼にさみしい思いをさせてしまった。彼は私の夫、私が振り向けばいつもそこにいてくれるはず、その安心感が、その身勝手が…… 彼が他の女性に心を奪われても仕方ない……
でもこんなはずじゃなかった、人気のあるうちにできるだけって…… ふたりの家庭のためにと思って頑張ったつもりが家庭を壊してしまった。全て私の責任、でも本当に彼は好きな人ができたの……! )
これまで自信満々に、思いと直感にまかせて生きてきた彼女が、こんなに辛く悲しい苦悩を味わったことはなかった。こんなに時間をかけて考慮したのも初めてのことである。
説明のつかない、言葉では言い表せない、後悔の思いに覆い尽くされてしまった自らの心を鎮(しず)めるために、彼女は頭の中ではっきりと言葉を繰り返しながら冷静さを保とうとしていた。
それでも、彼に対する未練と後悔が、感情をむき出しにさせてしまうのではないか、そんな不安が頭をよぎり
( 絶対に彼を責めたくはない! そんな女にだけはなりたくない…… いや、でも、もしかしたら勘違いかもしれない )
そんな葛藤の中で心は疲れ切ってしまい、これ以上は耐えられない、どちらにしてもはっきりさせなければ……
彼女は、思いに押しつぶされてしまいそうになれながらも懸命に涙をこらえていた。
「あなたの中で何かが動き出していることは感じていたの…… 私は結婚しても仕事ばかりであなたに何もしてあげられなかった。だから、あなたに好きな人ができたのなら、遠慮しないで言って欲しいの…… 」
今までに見せたことのないような切ない表情で語る妻に彼は目を見開いて驚いた。
彼には奈津子との世界に没頭していく中で、妻を裏切っているとか、浮気をしているなどという感覚は全くなかったが、それでも
「私も気持ちの整理をしたいから…… 悪いのはあなたじゃない、一緒になっておきながら、あなたに独身者のような生活をさせてしまった私に全て責任があると思っている…… だから遠慮しないで話して、私もいつまでもこんな思いを引きずるのは嫌だから……」
そう言いながらも彼女はまだかすかな望みを捨てきれないでいた。
祈るような表情で話してくる妻に彼ははっとしてやっと我に返ると
( 俺は何をしていたんだ……!
亜由美はこんな思いをしていたのか、何も考えていなかった。やはり俺は夢を見ていた訳じゃない、現実にあったことに違いない。でも…… もう全て話そう、信じてもらえなくても話そう……!
俺達ももう終わりにした方がいいのかもしれない )
「ごめん、気づいていたんだな。全て話すよ。君は何も悪くない。結婚しても君が仕事を続けていくことはお互いに納得していたことだよ。こんな生活になることだって覚悟はしていたんだ。それなのに俺は我を忘れて迷ってしまった。信じてもらえないかもしれないけど話すよ」
「……」妻は生唾を飲み込んで静かに夫に見入った。
彼はクラブでの奈津子との出会いから話し始めた。
「八年ぶりに会った初恋の人から、ずっと好きだったって言われて舞い上がってしまって、夢のようだった。最初は上手を言っているだけって思ったんだけど、高校二年の時に彼女に話しかけられたことがあって、俺はとてもうれしかったけど、恥ずかしくて逃げ出してしまったことがあるんだ。だけど彼女はその時、逃げ出した俺に振られたって思ったらしい。それに俺のことを信じられないくらいに知っていて、何かもう訳が分からなくなってしまって二時間ほどがあっという間だった」
「それが最初だったの?」
「そう…… だけど俺はどうしてももう一度会いたくて、翌週に店に行ったら、彼女が飛んできて、お店じゃなくて外で会おうって……」
「それで外で?」妻はいたって冷静に尋ねかけた。
「ごめん、その次の月曜日、電話したらすぐに出て来てくれて、一緒に食事したんだ。俺が肉を嫌いなことまで知っていて、優しい笑顔で語りかけられて、もううれしくて幸せで『この人と結婚したかった』って思ってしまった…… 俺はこんな男だ」
彼は情けなさそうに俯いてしまった。
「いいのよ、ずっと一人にしていたんだからそんな思いにだってなるわよ、仕方ない…… それからどうしたの?」
妻は別れを覚悟したが、ただ、この話の終着点が気になっていた。
「次の月曜日は休みが取れることになっていたから、どこかへ行こうって言ったら、家に誘われて…… 『家だったらゆっくりお話しできる』って言われて、でもその時はやましい気持ちはなかったんだ」
「うん、わかってる」
「家で昼前から夜まで過ごして、そろそろ帰らないとって思った時、突然彼女が『初恋の女、抱いてみる?』って言って、正直、抱いてみたかった。でも抱いてしまうとすべてが終わってしまいそうで…… 恐くて断った」
「彼女はなんて言ったの?」妻は断った夫に驚いていた。
「自分のことを思っていてくれた人だから、望みがあるのならかなえてあげたいって思っただけ、って……」
「そうなの……」妻にはよくわからなかった。
「それからも毎週月曜日は、一緒に夕食を食べて、静かなところで話して、とても穏やかで何か包み込まれているようで、雲の上にでもいるような思いだった。だけど、それから一ヶ月ほどした時に、突然北海道へ行くって言いだして、俺は必至だったよ、彼女との時間は失いたくなかった…… 『結婚しよう、妻とは別れる』って言ってしまった…… ごめん……」
「いいのよ、覚悟はできているから…… 」彼女はもう諦めていた。
「だけど彼女は、自分たちが楽しかったのは思い出の中にいたからで、現実の世界ではこうはいかないって、君と向き合って話しなさい、俺の幸せだけを願っているって…… それでいいのかって聞いたら、俺と話しができたから、何も思い残すことはない、大丈夫って!」
「そうなの? 何かすごい人ね、でもそれで終わったの? 」
妻は、話が思わぬ方向に進んでいったことに驚くとともに、理不尽な温かさがこみあげてくることに気が付いていた。
「どうしてももう一度会いたくて、二週間後の同窓会に行ったんだ。この前の日曜日だよ、彼女も行くって言っていたから…… だけど……」
「来ていなかったの?」
「来ていないだけなら、それでよかったんだけど、幹事が、開会にあたって二年前に亡くなった下山奈津子さんの冥福を祈って黙とうって……」
「えっー、どういうことなの?」彼女はもう覚悟とは別の世界に入ってしまった。
「俺が聞きたいよ。そしたら彼女の親友がやって来て、『奈津子はあなたのことが好きだった』とかなんとか、『亡くなるまであなたと話したがっていた』って…… 俺はからかっているのか、この前まで何度も彼女に会っている、彼女は生きている、俺を騙しているのかって言ったら、奈津子さんの思い出を汚さないで! って、怒ってしまって…… 俺はもう訳がわかんなくなって、だけどどう考えてもおかしくて、昨日、彼女の実家に行ってきたんだ」
「亡くなっていたの?」
「入れなかった、チャイムを押せなかった……」
「そうなの? でもみんなの前で黙とうまでして、亡くなられているのは事実よね…… 」
彼女の思いは覚悟した別れよりも、もうこの不可解な話の終着点に向いてしまっていた。
「俺もそう思う、だけどあれは何だったのか、もう頭がおかしくなりそうで……」
「そうなの、大変だったわねー、だけどあなたから初恋の話なんて一度も聞いたことないわよ」
「そりゃ、そんなことはすっかり忘れていたし、話すような物語なんて何もないし、話すこと自体考えたこともなかったよ」
「そうね、片思いの初恋なんてそんなものかもしれないわね……」
彼女はふっと遠くを見つめて、ため息をついた。
「だけど、所詮、俺はこんな男だよ、もう終わりにしよう……! 別れた方がいいと思う」
彼は彼女に去られて、妻にもこんな思いをさせてしまって、もうそこに結論するしかないと思っていた。
「ちょっと待ってよ、別れてどうするの?」妻の語気が強くなった。
「どうするって言われても…… どうもしないよ、一人で静かに生きて行くよ」
彼の言葉は別れを覚悟したというよりも、夫婦でいることを諦めたというように聞こえた。
「バカなこと言わないで! あなたの気持ちがその人に向いてしまったのなら、もう全くここにないのなら別れるわよっ、それだけの覚悟はしていたの…… だけどひとりぼっちになってどうするのよ、あなたは別れて自己満足かもしれないけど、私はどうなるのよっ!」
彼女の覚悟など何の意味もなさなかった。
思わぬ方向に進んでしまった物語が彼女の感情をむき出しにさせてしまった。
「亜由美…… 」
「あなたが一人ぼっちになるんだったら、私は別れない。 絶対に判はつかないから!」
彼女はむきになって、責めるような口調で強く言い放った。
「亜由美、でも俺は……」
「でもじゃないわよ、あなたをずっと一人して、何もしてあげられなかった私はどうすればいいのよ、どうやって償えばいいのよっ!」
「……」彼には言葉がなかった。
「わかったのよ、この二ヶ月でわかったの…… 思い知らされた。あなたを失いたくない…… あなたが幸せになるのなら仕方ないって思ったけど、一人になるんだったら絶対にいやっ!」
彼は付き合い始めて以来、こんなに心を乱した亜由美を見たことがなかった。
「亜由美…… 許してくれるのか?」
「許すも何も、あなたは何もしていないじゃないの…… 私だってテレビでイケメン俳優見たら抱かれたいって思うことがあるわよっ、どこが違うのよ、そんな思っただけで行動もしていないのにグジグシ言うのは止めなさいよっ!」
彼女はもう引く気はなかった。
「亜由美……」
彼は、結婚前の彼女を思い出していた。
「だいたい考えても見てよ、そんなにあなたのこと知っている人が何の冗談でそんなことするのよ、絶対に舞い降りてきたのよ……」
「えっ、やはりそう思うか?」夫は目を見開いて尋ね返した。
「あなたのこと思ってくれていた彼女が、あなたに、いや私達にちゃんとしなさい、暖かい家庭を創りなさい、そして幸せになりなさいってあの世から舞い降りてきたのよ、あなたの幸せだけ願っているって言ったんでしょっ……!」
彼女は一気にまくしたてた。
「うん…… 」
「きっとそうよ、それ以外考えられない。やり直しましょう、私は仕事を半分にする。そして子供も作りましょう、そうじゃないと次に舞い降りて来られたら罰が当たるわよ!次はすごい形相でやって来るわよ!」
彼女はそんなことを信じてはいなかったが、しかし絶対に夫から離れない、そんな強い気持ちで懸命に話した。
「そうなのか?」
彼は決して霊的な存在を否定している人間ではなかったので、この一連の不可解な出来事の説明がつかない中にあっては、妻の言葉にも信憑性があると思った。
( 霊だったのか、でも何か実感あったけどなー…… )
彼はこの不可解な思いを当分引きずってしまった。
その一年後二人は子供を授かり、幸せな時間が流れていた。
不思議なことに仕事を減らした彼女の収入は、以前とほとんどかわらなかった。彼女が仕事を減らしたことで、彼女のデザインするドレスは希少価値が高まり、彼女のデザインを求める需要はますます高まっていた。
しかし、彼女は、土日は絶対に仕事を休み、平日もよほどのことがない限り夫の帰宅時間に合わせて仕事を切り上げていた。
夫の数倍の収入があったが、彼女はそれには手を付けなかった。いつか、家を建てて……
と思っていた。
真 実
事件から間もなく三年になろうとしていた。
時は静かに流れ、家庭の中では二歳になった愛娘の未祐が笑いを振りまいていた。
その日も娘の昼寝に寄り添っていたはずの妻が、一冊の本を持って慌てて彼のもとへやって来た。
「パパ、この本、この本読んで!」
久しぶりの張り詰めた声に驚いた一樹は
「どうしたの? そんなに慌てて、未祐が起きるよ……」
そう言って差し出された一冊の本を手にして目を見張った。
その本の帯に奈津子が顔写真付きで載っていた。
【七年の眠りから目覚めた気鋭の才女……
長崎明子が三年の歳月を費やして書き上げた渾身の物語『ただ話したいだけなのに』
既に映画化も決定!
あの『地の果てから』をしのぐ物語に、あなたは巡り会える…… 】
「奈津子さんだっ……!」
「えっ」
「この人が奈津子さんだ」彼は唖然(あぜん)としていた。
「この長崎明子が奈津子さんだったの?」
「……」彼は静かに頷いた。
「えっー、驚いたわねー、でもとにかく読んでみて……」
夕食も取らずに一気に読みほした彼は怒りに唇を震わせていた。
紛れもなく、奈津子と自分の物語であった。
それは最後に身代わりを務めたホステスが墓前に報告するところで幕を閉じていた。
「許さない、絶対に許さない……」彼はそう呟きながらかつて見せたことのないような形相で一点を見つめていた。
「あした、北都ホテルでサイン会があるみたい…… 行ってみる?」
「行ってもいいのか?」
「もちろんよ、わたしもついていく……!」
その夜、ベッドで横になった亜由美は目を閉じたまま思いを巡らしていた。
( あの『地の果てから』はすごい作品だった。あんなにリアルに人の情念を描くことができるものなのかと感銘を受けた。読むたびに情景が瞼に浮かび、まるで瞼の裏で映画を見ているかのようだった。
小説を読んであんなに感激したことはない。
でも、あの物語を創り上げた長崎明子が、私の夫を描いてくれた。彼の思いは痛いほどわかるけど「もう済んだ」と言われていたのに、あの長崎明子が他の女性とのかかわりの中であっても、夫を描いてくれたことはうれしい。
彼の思いがあるから冷静には評価できなかったけど、それでもこの奈津子と夫の物語は、あの『地の果てから』を越えているような気がする…… すごい物語を創ったなー……
でもこの人の明日の物語はどうなるのだろう…… )
そう思って彼女は隣のベッドで、眠っているのか、目を閉じたまま何かを思っているのかわからない夫に静かに目を向けた。
翌日、北都ホテルでサインを求める列に並んだ一樹はじっと明子を見つめていた。
順番が来て、目を上げた彼女が彼に気付くと、彼女は唇に人差し指を立て、『内緒』と言わんばかりであった。
彼はここでは話せない、しばらく待とうと思って、サインしてくれた本を受け取ると静かに立ち去ったが、すぐに追いかけてきた出版社の人に呼び止められた。
「失礼ですが、真木一樹さんですか?」
「はい、そうですが……」
「長崎がぜひお話ししたいのでお時間をいただきたいとのことですが……」
「私も話したいです」
「三時にはサイン会も終了しますので、それまでお待ちいただくことは可能でしょうか?」
「わかりました。それでは一階のラウンジで待っています」
ラウンジへ降りると、出版社の者から連絡があったのだろうか、彼らは人目につかないように仕切られた一角へ案内された。
一方サイン会場で、長崎明子の前に立った最後の一人は、あの一樹と同じ部署で仕事をしているクレオパトラであった。
今現在も同じ部署なのかどうかはわからなかったが、彼女は三年前と全く変わることなく美しかった。
彼女に気が付いた明子は
「真木の家内です。主人がいつもお世話になっています」
と立ち上がって深く頭を下げた。
「あっ、いえ、こちらこそ……」
クレオパトラは冷静に対応したつもりであったが、驚きは隠せなかった。
再び頭を下げた明子はラウンジへと急いだ。
出版社の人に案内されて降りてきた明子は、彼の妻を見て少し驚いたが
「奥様もご一緒でしたか…… かわいいお嬢さんもできてお幸せそうで何よりです」
そう微笑んだ。
「あなたは、この物語を創るために私を騙して奈津子さんに成りすまして、事実を湾曲させて、故人を冒涜して恥ずかしくないんですか?」
突然襲いかかった一樹の言葉は静かであったが、それでも怒りに満ちていた。
「ごめんなさい、奈津子さんに成りすましてあなたを欺いていたことは謝ります。でも彼女を冒涜した等とは全く思っていません」彼女は姿勢を正して彼を見つめた。
「何故そんなことが言えるんですか、奈津子さんが気の毒でならない……」
「私は、奈津子さんが亡くなった五年前、彼女と同じ病棟に入院していました。年が近くて、どことなく似ている二人は直ぐに意気投合して時間を共有するようになりました。親しく話すようになると、彼女の口からあなたへの思いが語られるようになって、彼女の真木一樹に対する思いはとても興味深かった」
「おもしろがっていたのかっ……!」彼の言葉は突き刺すようで、その目は鋭く研ぎ澄まされていた。
「パパ、聞いてあげましょうよ」妻が心配そうに彼の背中をさすった。
「奥様、すいません…… 」
「とんでもない、大丈夫です。続けて下さい」
「ありがとうございます。奥様も話は全て聞いていらっしゃるんですよね?」
「はい、聞いています」
物語を始めようとして出鼻をくじかれた明子は一瞬下を向いたが亜由美の言葉に救われ顔を上げると再び話し始めた。
「彼女は、ご存知のように高校二年の夏、思いを伝えようとしましたが、それはかなわず、終わったと思っても、思いを断ち切ることができず、時々目にするあなたが眩しくて、『いつかあなたとお話しがしたい』その思いを心に閉じ込めたまま大学に進みました。でも体調を崩し、そこからは入退院を繰り返す日々でした。すい臓がんで一度目の手術は成功したかに見えたのですが、三年後再発して、私が彼女に初めて会ったのは再び入院した時でした」
「……」
「入院した彼女のもとにやって来る友人達はかつてのクラスメートの近況を教えてくれたそうです。彼女はそれを聞くのがとても楽しかったって言っていました。その中に時折見え隠れする真木一樹のことを知ることができたから…… 彼女はあなたのことがもっともっと知りたかったから、自らは思うに任せない人生でも、人を羨(うらや)むことなくみんなの話しを懸命に聞いたらしいです」
一樹に語りかける明子の目には涙が滲(にじ)んでいた。
「嘘じゃなかったのですか?」
彼女の語りかけに目を伏せていた彼は、驚いて顔を上げた。
「私が彼女を演じたこと以外、偽りなんて全くありません」
彼女はまっすぐな目で一樹を見つめた。
「……」
その真実を語る強い眼差しに彼は再び俯いてしまった。
「私は退院してからも、毎日のように彼女のもとへ足を運びました。彼女の生に対するひたむきな思いに触れて、私はいつも生きなければ…… そんな力をくれる彼女が大好きだった。 でも日に日に弱っていく彼女を見るのはとても辛くて、彼女のために何かしてあげたい、死をも考えていた私の迷いを断ち切ってくれた彼女にどうやって恩返ししたらいいの…… そんなことばかり考えていました。 初めて死に直面した人を前にして、それも私と同年代の人、私も気が動転していた。 最期がそこまで来ている彼女には、もうきれいごとを言っても何にもならない、そう思った私は、彼女に
『最後に何がしたいの、もしあなたができないのなら私が代わりにしてあげる、だからお願い、教えて、何がしたいの?』ってそんなことを尋ねてしまったの…… でも彼女はうっすらと目を開けて、かすかに微笑むと
『真木君と話したかった』そう言ったんです」
そこまで話すと、明子は目を閉じて静かに息を吐いた。
娘は疲れて母にもたれかかり眠っていたが、一樹と妻は子供のように涙を流しながら俯いていた。
「私は、『真木君と話したかった』そう言った時、彼女の脳裏に浮かんだ真木一樹はどんな表情をしていたのか、それがとても知りたかった。でも悲しいかな、その術はなく、その翌日、彼女は静かに息を引き取りました。 『真木君と話したかった』と言う言葉が彼女の最期の言葉になってしまいました。 そんな小さなたった一つの願いさえかなわなかった。彼女は元気になればきっといつか、そう思って戦ってきたのに、そんな彼女のささやかな願いさえ神様は無視した。あなたに抱かれたいとか、あなたと暮らしたいとか、そんなことじゃないのよ! 二十四歳の女性がただあなたとお話ししたかっただけなのよっ、何でそんなことがかなわないのっ、そんなバカなことがあるはずがない……! 神や仏なんて絶対にいない……! 私は持っていき場のない怒りをどうすることもできなかった。 親友の陽子さんは、彼女の思いを知っていたから、あなたを連れて来るって言ったらしいの、でも彼女は『彼にだけはこんな姿を見られたくない』そう言って断ったらしい。 頑張っても頑張っても、もうどうにもならない、そのことには気づいていたんでしょうね。 あなたのアルバムの中に、その時の自分は残して欲しくなかったんだと思う」
彼女の願いがかなわなかったことに対する持っていき場のない怒りに明子は感情をむき出しにして話し続けた。
「……」
一樹は俯いたまま涙をぬぐっていたが、妻は、涙を浮かべながらも懸命に明子を見つめていた。
「私はとても恥ずかしかった。私達元気な者からすれば『お話しがしたい』、たったそれだけのこと、でも生きることがままならない彼女にとっては渾身の思いだったに違いない。 ペンが進まないで悩んでいた自分が愚かに思えて恥ずかしかった」
言葉に力を宿す天才が創り出す、この長崎明子の世界は、この会話だけでも一つの物語を産みだしてしまいそうな流れの中で二人の心に何かを突き刺してくるようであった。
「私は彼女の遺品として、彼女がいつも肌身離さなかった携帯電話が欲しかった。 でも『さすがに携帯電話は……』って彼女の母親は難色を示したけど、死を考えたこともあった私を彼女が救ってくれたことを話すと、最後には『あの子の分まで生きてね』って言って私にそっと渡してくれたの」
「携帯電話には彼の写真が入っていたんですか?」一樹の妻が尋ねた。
「はい、でもしばらくの間は携帯を開くことができませんでした。何より、彼女の人生を考えていましたから……」
「……」
「小学校の頃からお友達になりたいと思って、お話しがしたいと思って、高校生になってもそれがかなわず、病魔に襲われ、それでもいつかはと思って頑張ってもどうにもならず、そんなたった一つの願いが叶うことなくこの世を去っていった彼女の人生って何だったのだろうって、いつも考えるようになっていました。携帯電話を手にして、奈津子さん教えてって言ってみるけど答えてくれない。だけど、ある時何気なく開いた携帯のカレンダーに一樹さんの誕生日が入っていたのを見て、他にも何かあるかもって思って探したらメモに彼女の歴史が綴ってあったの、日記風に詳細に書かれていた。あなたは肉が嫌いなこと、サッカー部のこと、高校二年夏休み前、思い切って話しかけてみたことも詳細に書いてあった。大学へ進んでからは二人の男性と付き合ったみたい……」
彼女は自らの過去を思いだすかのように、しばらくの間、一点を見つめると目を閉じて俯いた後、再び話し始めた。
「でも、大学二年の冬の日記には『やっぱり真木君と話さないと次に進めない…… 告白どころか話したこともないのに、どうしてここで止まっているの…… 何にも始めていない…… でも、また無視されたらもう駄目かも……』って記されていた。大学二年の三月は『体調不良で入院 元気になったら真木君と話したい、今度こそ…』、四月になると『一時退院したが、もう駄目かも…… 手術が怖い…… とても彼に会う勇気はない……』 これはほんの一部だけど、私は何度も何度も読み返して、全て覚えてしまうぐらい読み返したの……」
明子も当時を思い出しあふれる涙をぬぐいもせずに、何かにとりつかれたように話し続けた。
「私たちが一緒になったことも知っていたんですか?」心配そうに妻が尋ねた。
「あなた達の結婚もメモに記されていたわ、後半ではこんなメモもあった。『 私はもうだめかもしれない、死ぬまでに一度でいいから真木君とお話しがしたい、結婚している人にこんな願いは駄目かな……』、 最期のメモは、『何とかもう一度退院することができれば、彼と話がしたい、もう時間がないかもしれないけど…… もうそんなことは夢の中の夢、死ぬまでかなわない、勇気をもって二度目のトライができなかった私は、神様に見放されたのかもしれない……』 これが最期のメモ、亡くなる前々日…… 」
「……」
「確かにたったの一歩、彼女にはその一歩を踏み出す勇気がなかったのかもしれない。でも、たったの一歩、ただそれだけのことなのに…… 」
持っていき場のない悔しさに明子は再び涙をにじませた。
一樹は相変わらず俯いたまま目を閉じて明子に聞き入っていたがその複雑な胸の内をどうすればいいのかわからないまま、奈津子を思い出そうとするが、どうあがいてみても彼の瞼の裏に浮かび上がるのは明子の笑顔であった。
一方妻の亜由美は、膝の上に寄りかかっている娘を見つめながら、隣に座っている夫の背中をさすっていた。
彼女は何かを話したい衝動に駆られていたが、この長崎明子が創り出す世界に自分の思いが入ってはいけないような感覚さえあって、なかなか気持ちを挟むことができなかった。
「編集記録を見ると、書き始めたのは最初の入院をした時みたいだった。 恐らく過去のことを思い出しながら打ったのでしょうね…… もし彼女が病魔に侵されていなかったら、何かが変わっていたのかもしれない。でも何がどうあっても彼女は真木一樹と話がしたかった。 それが彼女の最期の願いだったことだけは動かし難い事実。 でも私が彼女に代わってその願いをかなえることなんてできない。私も重苦しい思いを抱えたまま流されるように生きていたんです。 だけど、携帯の中で笑っている彼女が頑張れって言うのよ。私は気を取り直してもう一度一から出発することを決心して、昔のようにホステスのアルバイトを始めたの。でもなかなか彼女の呪縛から逃れることができなくて、時間だけが過ぎて行った。私はもう自分が小説家であることさえ忘れかけていた」
「……」
「あなたがお店に来たのは二年後だった。あなたを一目見た時は心臓が止まるのかと思った。二年前の重苦しさが一気に蘇って来て、目まいがしそうだった。奈津子さんの名前を出すと動揺するあなたがいて、名前は一樹だって言うし、間違いないと思ったけど慌ててロッカールームへ帰って彼女の携帯を取り出して写真をもう一度見てもう確信していた。ここは私が奈津子さんの最期の願いに寄り添わないと…… 何とかしないと…… そう思ったらもう奈津子さんになり切っていた。ここから先は、お二人もご存知の通りです」
この四人だけの空間に長崎明子が創り出した物語の世界がやっと一区切りついて、しばらく沈黙が続いた。
「でも…… 主人に抱いてみる? って言ったんですよね」妻の亜由美が思い切って尋ねた。
「えっ、そこまで聞いていたんですか…… ごめんなさい」明子は小さく頭を下げた。
「いいえ、責めているわけではないのです。それも奈津子さんの思いだったのですか?」
目を見開いて明子を見つめる彼女は一瞬自分が一樹の妻であることを忘れていたのかもしれない。
「それは違います。彼に問いかけてみたかったの…… 奈津子さんとのアルバムを汚すのか、大事に保存するのか、彼に尋ねてみたかった。これは私の思いです。 その頃、私自身も彼に魅かれ始めていましたから、もう限界を感じていて、これ以上は、私が彼女の思いを汚してしまうかもしれない…… そんな不安がありましたから彼にかけてみたかったんです」
「でも、もし主人が抱きたいって言ったら……」
「その時は全てを話して終わりにするつもりでした。 でも実際にそうなっていたら、わたしも一緒に泥沼に浸かってしまったかもしれません。 正直言って自信はありませんでした。 しかし彼は彼女のアルバムを汚さなかったから、私ももう少しがんばってみようって思いました。でもやはり限界は来てしまって……」
「それで去ることを考えたのですか? 」妻が呟くようにいうと
「もうここまでって思ってしまったんです。それに奈津子さんに早く報告して自分が楽になりたいという思いもありました。 翌日、彼女の墓前に報告しました。一樹さんに会って彼女の思いを伝えたこと、彼も彼女に思いを寄せていたこと、彼女が彼のことをどんな人だと思っていたのか、結局私にはわからなかったけど、でもやさしくて誠実な人だったこと、あなたも喜んでいるわよねって…… そして彼女ならあんな風にしてアルバムを閉じるって思って……」
「……」
「立ち昇る香の煙がきれいに一直線に天に向いて、それを見た私は思いが通じた、彼女との約束を果たすことができた、そう思ってやっと心が晴れて行くような気がしました。二年以上かかっしまったけど、すごく気持ちが楽になって……」
「申し訳ない、君がそんな思いでいたなんて……」
重苦しい世界に沈み込んでいた一樹がやっと顔を上げると穏やかな目で明子を見つめた。
「とんでもない、ある意味、あなたにすれば、いい迷惑だったかもしれない。あなた自身はちゃんと初恋に区切りをつけて、次の恋愛を始めて、結婚までしていたのに、あなたの知らない所であなたに思いを寄せたまま亡くなった人がいて、その最期の望みを何とかしたいって勝手に思っている女に、あっという間に舞台の上に引っ張り出されて…… でもあなたは奈津子さんとの思い出に寄り添ってくれた」
「そんなかっこいいものじゃなかったんです」
「当時、奥さんとすれ違いが多かったことがあったのかもしれないけど、それでも思い出のページを一枚ずつ丁寧に一緒にめくってくれた。 私はとてもうれしかったし、奈津子さんも絶対に喜んでいると思った。こんな風に二人だけの時間を持てることがわかると男は必ずと言っていい程、愛を求めて来る。それは自分に対する女の深い思いやりであったり、女の身体であったり、物であったり、人それぞれだと思う。でもあなたは私に何も求めず、ただ、私がめくるアルバムに思いをよせてくれた。 実際に奈津子さんがあなたのことをどのような人だと思っていたのかはわからない、でもあなたは私の中の奈津子さんにとっては思っていた通りの人だった」
「そんな…… 」
「話していてあなたという人がよくわかった。だから私も本当はここでピリオッドを打ちたかったの、この物語は書きたくなかったの…… このノンフィクションはあまりに辛すぎる。読む人は必ず奈津子さんの思いを引きずってしまう、だから書きたくはなかった」
「何となくわかります。物語のために何かをしようって思っていた訳じゃないんですものね」
妻はその思いに納得していた。
「私は、自分が彼女に代わって彼女の最期の願いを叶えたなんて、そんなおこがましいことを言うつもりはないの。ただ、彼女がそこまで思い続けた真木一樹に会って、彼が奈津子さんのことをどう思っていたのか、彼はどんな人だったのか、それをしっかりと受け止めて、彼女に報告したかった。それができないと、私の中の彼女はいつまでもさまよっていて、彼女の物語に終止符を打つことができない、そう思っていたから…… だから、本当はここまでで良かったの!」
「でも、そこで終われなかったんですね」妻が明子の心を察して再び言葉を挟んだ。
「はい…… 真木一樹に会って、そのことを奈津子さんの墓前に報告したことは、ご両親にも伝えたかった。ご両親だって真木一樹の思いは知りたかったはず、そう思って、その足で実家にお邪魔して、一連の事実をお話ししたらご両親はとても喜んでくれた。 一時(いっとき)は当時の悲しみを呼び起こして涙させてしまったけど、それでも気持ちはとても楽になったはず、 携帯の中にあったメモのことは話さずに帰ろうとしたら、突然彼女の母親が話し始めたの……」
奈津子の母親は、明子がもしペンを取ることができずに悩んでいるのであれば、娘の物語を書いて欲しいと思っていた。
彼女が娘の人生に出くわしてしまったのはそのためではないのだろうか、流れは明子が物語を完結すべき位置に立っているような気がしてならなかった。 もしこの物語が完結すれば多くの人が涙して、それでもまた立ち上がって歩こうって思うはず。 あの新人賞をもらった、あの『地の果てから』のような、あんな物語を創り出すことのできる明子なら、それに値する物語にできるはず、だからできることであれば書いてほしいと願っていた。
しかし、明子にも読者に負の連鎖を引き起こさせてしまうような物語は書けない、書くべきではないという思いがあって、そのことを知った母親は、明子の中の娘を描いてくれればいい、彼女の思いは親でさえ分からないことが多くて、何故、最期まで一樹さんとお話しがしたかったのか、お話ししてどうしたかったのか、彼女は苦しい中ででもなぜ笑顔を絶やさずにいられたのか、その支えは何だったのか、考えれば考えるほどわからないことばかりで、明子は親友の陽子とはまた違った思いで彼女を見つめていたことを感じていたから、その明子の思う奈津子を、明子が想像する奈津子の人生を完結させて欲しいと願った。
両親は明子が完結させる彼女の中の奈津子を実の娘だとは思えないかもしれないけど、でも娘の人生と重ねて見ることはできる。 実話に基づく物語ではなくても、明子が創り出した一人の女性を描いてくれれば、それが娘の供養になるし、娘はきっと喜ぶ。できればそれをきっかけに明子が再び羽ばたくことができれば、娘は絶対にうれしいはず…… そう考えていた。
明子は、この母親の強い思いに押されて決心したことを説明した後で
「ごめんなさい、あなたにも断っておくべきだったかもしれない……」
静かに一樹に詫びた。
「いいえ、私なんか……」
「でも、なかなかペンを取れなくて、二週間後、ちょうど同窓会のあった翌日らしかったけど、陽子さんを訪ねたの。 話を聞いた彼女はあなたの様子がおかしかったことに納得していた。 ただ私は不思議に思っていたことがあって、そのことを陽子さんに尋ねて見たかったの…… 『八年会っていなくても、本人かどうかわかりそうなものだけどね』って言うと、私の瞳と彼女の瞳ってすごく似ているんですってね」
「瓜二つだよ、私は君の瞳を見て、彼女の昔を思い出したぐらいだから……」
「そうなの、私は全然気づかなかったれど、でもそれを聞いて、あんなに真剣に奈津子さんに向き合ってくれたあなたに奈津子さんを見て欲しい、私が描いた奈津子さんでもあなたは納得してくれるはず、そう思った時、やっと筆を取る決心がついて北海道の実家に帰りました」
彼女は一気に思いを込めて語った。
そして奈津子の物語
「でも三年とは、すごくかかりましたね」
「自分でも驚いています、でも私にとってはあっという間だったんです。 実家に帰って、北海道の大地で、毎晩夜空に向って彼女に語りかけて、彼女の思いを汚していないか、こんな想像してもいいかとか、一行一行とても大事に創り上げたの…… 一節を綴るのに三カ月かかった所もあった。 奈津子さんのお母さんは私の中の奈津子さんを書けばいいって言ってくれたけど、やはり本当の奈津子さんを想わないと書けないのよね。ただ、最後に読者が彼女の思いを引きずるようなことになってしまえば、その時は断念しなければ…… とも思っていた。全体の骨格は考えずに書き始めたのに、できあがった物語は、見事なまでに洗練されていた。恐らくそれは、彼女の思いが一点の曇りもなかったことを意味しているんだろうなって思ったの。 『地の果てから』を書きあげた時とは全く違って達成感よりは安堵する思いの方がはるかに大きかった。 読み返してみて、私は自らが創り上げた物語に涙して、愚かにも自分が頑張らなくては、って思ってしまって……」
「それは愚かではないですよ。その価値があると思いますよ。あの『地の果てから』は確かにすごい作品でした。小説を読んであんなに感激したのは後にも先にもありませんでした」
「ありがとうございます」彼女はうれしそうだった。
「夫の思いがあるから冷静には読み切れなかったかもしれないけれど、それでもこの奈津子さんと夫の物語は、あの『地の果てから』を越えている…… すごい物語を創り上げたなあって感心する一方で、あの『地の果てから』を創り上げた長崎明子が、私の夫を描いてくれた。夫の思いは痛いほどわかっていたけど、沈黙していたあの長崎明子が他の女性とのかかわりの中ではあるけど夫を描いてくれた……
おかしいかもしれないけど、私はこのことが何よりうれしかった。少なくとも天才、長崎明子の目に夫はこんな風に見えたんだと思ったら、夫には申し訳なかったけど、私はあなたに心からお礼を言いたいです」
「亜由美……」
「あなたごめんなさい……」
「いいよ、俺も長崎さんの話を聞いていて、この物語のエンディングの意味が分かったよ、 本当に申し訳なかったです。あなたの葛藤も知らずに勝手なことを言ってしまって……」
「とんでもないです。 でも真木一樹に納得してもらって、初めて、私の物語は完結したような気がします。ここからは、この物語が読者の方々の力になれることを祈るだけです」
穏やかな空気が流れ、それぞれの思いやわだかまりが不思議なように消え去り、その余韻にしばしうっとりとしていた時
「一つだけ、お伺いしてもよろしいですか?」亜由美が突然切り出した。
「どうぞ、何でも聞いて下さい」
「どうでもいいような話かもしれないんですけど、今回の出版は皆藤社ではないですよね、 あまり聞いたことのないような……」
「そうです、山﨑書房です」
「編集者は同じなのに…… そこにも何か、思いがあったのですか?」
「奥様はすごいところに気が付くんですね、ご主人からいっしょになった経緯(いきさつ)もお伺いしましたよ」
「えっ、そうなんですか? パパ、何を話したの?」
「えっ、いや、その……」
「あなたなんて何の取り柄もないんだからね、わかっているの? 空を飛べるわけじゃないし、百m十秒で走れるわけじゃないし、あなたの取り柄はたった一つだけ、私と巡り会ったことよ、そのたった一つの取り柄を捨てるつもり? 」明子が微笑みながら言うと
「えっー、恥ずかしい、パパ、もう」妻はそういって軽く彼の背中をポンと叩いた。
「ごめん……」
「あの時、こんな人にかなうわけないって思いましたよ、きっと奈津子さんもそう思ったはず…… 」
「えー、ほめられているんですか?」
「もちろんですよ、真木一樹は、あなたといるから幸せなんですよ。今のお二人を見ていると、奥様と出会ったのが真木一樹の最大の取り柄だって思いますよ」
「何か、不思議な気持ちですけど、うれしいです。天下の長崎先生にそんなに言っていただいて光栄です」
妻はとてもうれしそうだった。
「ごめんなさい、話がそれてしまって…… すごいなと思ったら思い出してしまって!」
「あっ、いえ、大丈夫です」
「物語に納得した私は、彼女のご両親の許可を取ってから出版したかったから直ぐにご両親を訪ねたの。 三年も経っていたから諦めていたのでしょうね、完成の話を聞いてとても喜んでくれたけど、ご両親は『あなたが描いた物語の主人公について私たちが云々言えるものじゃない、私達はできあがったものを読ませていただきます』って……」
「それはそれで何かすごいですね」
「ええ、それを聞いて思ったの、ここまで来てそれでも私には覚悟がなかったのね、ご両親が納得してくれれば安心できるって思っていたのね。でも、何かすべてがすっきりしたような気持になって、さっそく『地の果てから』を出版してくれた皆藤社に連絡したら、当時の編集者は退職していて、『後を引き継いだ方に』ってお願いすると、編集長に軽くあしらわれてしまって…… ただ別の出版社ということになれば、時間がかかるし、編集者のことも心配だし、少し参ったなって思って、携帯に残っていた当時の編集者の加藤さんに祈るような思いで電話を入れたら彼女が電話に出てくれて、私の番号はまだ残していてくれていて、ほんとにうれしかった。この物語はやはりこの人と出版したいと思ったの」
「そんな背景があったのですか……」
「小さな出版社だけど楽しくやっているみたいで、第二作目ができたって言ったら、電話口で泣いて下さって、直ぐに読んでくれて、すごく感激してくれたの。『この物語は一作目をはるかにしのぐ、うちでいいんですか? 皆藤社じゃなくていいんですか?』って聞いてくれて、だけど三年をかけて完成した作品だし、色んな人の思いがこもっているから、人の思いが伝わらない皆藤社では出版したくないと思って彼女にお願いしたの」
「奈津子さんのご両親はこの物語を読んだのでしょうか?」一樹が静かに尋ねた。
「はい、直ぐにお手紙をいただきました」
奈津子の両親から届いた手紙には
『ありがとうございました。素晴らしい主人公に感激しました。娘の死から未だ立ち直れず、ただ老いを生きていましたが、あなた様の完結した奈津子に触れて、また頑張らないとって、ほんとうに思うことができました。ありがとうございました』
とあった。
帰り道
「これで良かったんだよな……」独り言のように呟(つぶや)いた彼の表情は、忘れていたとは言え、心の片隅に残っていたわずかなしこりが消えたのだろうか、とてもさわやかだった。
妻は、三人で歩く姿を遠目に思い浮かべ
( やはり奈津子さんの思いだったんだ。彼女の思いがこの幸せな家族を創ってくれたんだ。感謝しないと…… )
そう思った彼女は微笑んで空を見上げた。
一方、サイン会の翌日、会社でお昼のチャイムが鳴ると、立ち上がったクレオパトラが突然一樹に向って
「あなたの奥さんて、やはり長崎明子だったのね。以前は知らないって言っていたくせに!」と蔑むように言葉を投げ捨てた。
「えっ、どっ、どうしたんだ……!」
突然のことに彼は慌てたが、しばらく考えて静かに微笑んだ。
その陰に
書店へのあいさつ回りやら、サイン会で忙しくしていた明子は、ある夕方加藤から食事に誘われ、料亭に出向いた。
そこはかつて、彼女が『地の果てから』を出版して忙しくしていたころ、当時の皆藤社の編集長によくご馳走になったところであった。
当時は編集長に、編集者の加藤を加え、三人でよく食事をしながら生意気にも将来の文学界を議論したりしていたのを思い出した。
部屋へ入ると当時の編集長、高田と加藤が待っていた。
「編集長! お久しぶりです」明子は彼に会えたことがとてもうれしかった。
「いい作品ができたね、ほんとにおめでとう、あんなすごい作品は君にしか書けない、感激したよ、ほんとによく頑張ったね、書き始めるまでの四年は辛かっただろう…」
「はい……」
「元気な君に会えてほんとにうれしい… もう七十万部を超える勢いだって…」
彼はそう言いながら目頭が熱くなるのをどうすることもできなかった。
彼が、皆藤社の編集局長であることを知っていた明子は
「すいませんでした。あんなにお世話になったのに、加藤さんの所へ行ってしまって…」
「とんでもないよ、加藤のところで良かったと思うよ… 今の皆藤社は駄目だよ…
電話はしたんだろ?」
「はい……」
「はははっ、想像はつくよ… 誰も相手にしてくれなかったんだろ?」
「はい…」
「申し訳なかった、ほんとに恥ずかしい限りだ… あそこはもう駄目だな… こんなにしてしまったのは俺なんだよ」彼が寂しそうに言うと
「局長のせいじゃないですよ…」事情を知っている加藤が彼をかばうが
「いや、やっぱり加藤を手離した俺の責任だな…」
「加藤さんはどうして会社を変わったんですか?」
「それはな、俺が悪いんだよ…」
「電話したら、退職したって言うから一瞬目まいがしましたよ」
「そりゃそうだわな、俺だって正直言って君の二作目には関わりたかったよ、でもうちには長崎明子のすごさを知っている奴がいない、加藤が出て行ってからはもう最悪だよ」
「編集長と喧嘩でもしたんですか?」
「いいや、恥になるけど君には話しておくよ、俺が局長に昇格するときに、俺の後は間違いなく加藤だと思っていたんだ。恐らく誰もそう思っていたはずなんだ、でも今の佐々木になったんだよ、当時常務だった今の社長の娘婿なんだよ彼は…」
「サラリーマンの世界って面白いですね…」
「おもしろくないよ、こっちは必至だったんだよ、いくら言ってもあのバカ社長は耳を貸さなくて、それでも加藤は引き続き、編集者として頑張ってくれていたんだが、あのど素人の佐々木が、加藤の編集にケチつけやがって… 俺もたまりかねて大声でどなったんだよ… でもそれがよくなかった、その後加藤への風当たりが強くなって部下たちも困っていた。それで加藤が他に二~三誘ってくれるところがあるから辞めるって言いだして……」
「そうだったんですか……」明子が囁く。
「俺もそれ以上は頼めなかった、もう諦めたんだよ、その時、山崎しかいないって思ったんだよ。彼は昔一緒に同人誌をやっていた頃からの付き合いで、飲むといつも加藤を褒めていた。彼女の編集者としての才能をわかっていたんだよ。加藤が編集した本は必ず読んでいるんだよ。例えつまらない作家の本でも読んでいるんだよ、彼女の編集が見たいんだって言っていたよ。バカみたいな本でも、彼女の編集が入ると素晴らしくなる。彼ぐらいになると、元の本が三十点で加藤が編集して七十点になったとか、四十点が七十点になったとか、編集前の物語が想像つくらしい、ここの一節は、元はこの程度だったはずだ、だけど加藤が編集してこうなった…… こんな感じなんだよ」
「すごいですね…」明子は目を見開いて感心していた。
「いつも『加藤さんみたいな人がうちにいたらなー』ってこぼしていたから電話したらすぐに飛んできて、あっという間に今のようになった訳……」
「へえー、三作目ができそうですね……」
「長崎ちゃんも言うようになったねー」
「苦労しましたからねー、あっ、そう言えば確か高校三年生でデビューした女の子、山﨑書房じゃなかったですか?」彼女が突然加藤に目を向けた。
「読んでくれたの?」
「ごめんなさい、ちょっと噂を聞いただけなんです」
「そう、でも知っていてくれただけでもうれしい、局長の紹介なのよ」
「えっ、局長、援交していたわけじゃないですよね」
「長崎ちゃん、頼むよ、なんてこと言うんだよ、偶然だよ、偶然……」
「聞きたいですねー、どんな偶然で女子高生が出版にすることになったんですか?」
「疑っているだろう?」
「そんなことはないですよ、説明に納得できれば信じますよ」
「あのさー、彼女はね、初めて作った小説を持ち込んできたのよ、その時に間違って俺の部屋にきてさー、俺も暇だったから、読んだんだよ。そしたらまだまだなんだけど何だかおもしろくてね、最後は加藤に頼んでみようって思ったんだけど、とりあえず皆藤社の誰かに読ませてみようと思ってさ、電話したら相田が出たから彼にとりあえず読むだけ読んでみてくれって言ったんだよ、ただし気を使わないように念を押してね。それでその女子高生に原稿を相田の所へ持って行かせたんだよ。そしたら、案の定、『全然だめだけど、素質はあるから、もう少し勉強してからまた書いてみたら』って言われて俺の所に帰って来て、『ありがとうございました。諦めます』って言うから座らせて編集者の話をしたんだよ」
「へえー、初耳ですね、是非聞きたいです。」加藤が言うと
「ぜひ」明子も追随した。
「だからさー、物語って言うのは、作家が完結した段階では、きれいに仕上がっているものもあるし、荒いものもある。その作品が荒い時、だめだと判断するか、手を加えればよくなると判断するか、それは読んだ者の編集能力による。ある者がだめだと思っても、ある編集者はいい作品になると考えるかもしれない。その作品を読んだ時に完成した物語をイメージできるかどうか、これが即編集者の評価に直結する。君が今会って来た人は三流の編集者だ。運の悪い人はこの三流の編集者によって道を閉ざされ、断念してしまう。でも運のいい人は一流の編集者に巡り会って、次のステップに進むことができる、もちろんその場で断念せざるを得ないこともある。次はこの人に会ってきなさい。超一流、日本で最高の編集者だ、私の名刺を持っていきなさい。こんな感じかな……」
「局長、かっこいいです…… 援助交際していないこと、信じます」
「長崎ちゃん、もう勘弁してくれる……!」
「ごめんなさい、でも運のいい子ですね、間違って局長に巡り会って、そのおかげで加藤さんに巡り会ってデビューしたわけですよね」
「そうだね、正直言って俺は判断しかねたんだよ、だから加藤に任せた。どちらにしても皆藤社ではあの作品を編集できる奴なんていないから、それだったら加藤かな、困った時の加藤頼み… でもすごいね、十万部行ったんだろ」
「いま、十二万部です。ただあの子も、問題は次だね」
「そうですね、今回は女子高生の処女作ってことが相当上乗せされていますからね、ただ、今回の作品は認めて欲しいっていう思いが強くて、彼女を出し切れていません。次は彼女に思い切り書かせてみたいと思っています」
「こうなるんだよ、すごいねー」
「そうですね、でも私もお願いしますよ」
「もちろんですよ」
「加藤はね、君がホステス始めたの、知っていたんだよ…」
「えっ、そうなんですか?」彼女は驚いて加藤に目を向けた。
「だけど、彼女は、黙ってじっと君を待っていたんだよ、君の二作目を見るまでは編集者を止めることはできないって言って、今のとこでは、編集長をやりながら編集者もやっているんだよ」
「加藤さん…」彼女が見つめると加藤も微笑み返してきた。
「私は信じていた。あの『地の果てから』は今世紀最大の作品だと思っている。でもあなたはきっとあれを超える作品をいつか創ってくれる、あの作品を超えることができるのはあなただけ、そう思っていた」
「あの佐々木が連れてきた三流作家とはえらい違いだな」
「そう言えばあの人、先日、テレビで、『ただ話したいだけなのに……』を批評していましたね」
「バカだよ、頭きたから、『お前、自分の作品を読んだことあるのか、長崎明子はお前みたいな三流作家が批評できるような作家じゃないよ、立場わきまえろ』って呟(つぶや)いたら、あっと言う間に炎上してしまったよ、はははっ、あいつはもう駄目だな」
「局長はね、辞表出してきたのよ…」
「えっー!」
「長崎明子はあの作品をわが社に持って来たんだよ、それをあんたのばか娘婿が断ったんだよ、彼と心中しろって、叩きつけてやったよ。人生、こんなにスカッとしたことはないよ」
「これからどうするんですか?」
「もう六十を過ぎているんだ、ただの長崎明子ファンになるよ」
三人の話はいつまでも続いた。
完
最後までお付き合いいただきましてありがとうございました。作者としてはかなり自信を持っている作品なのですが、いつも独りよがりなのです。
もし、一言でも感想をいただければ、おそらく飛び上がって喜びます。
作者はその一言がいただきたくて物語を書き続けています。
面白かった、どうでもよかった、まあまあだったetc…… どんな一言でも構いません。