水面に落ちた小石
第一章 さまよい続ける思いの果て
気になる女(ひと)
理穂は一瞬目を疑った。突然の鼓動に胸が苦しくなって見つめたその一点から目を反らすことができなかった。
ゴールデンウイーク明けの木曜日、店は休日、朝方、小雨がぱらついたが十時前には太陽が顔を覗かせ暖かくなりそうな一日であった。
和也が出かけたため、理穂が外で昼食を済ませ買い物をしていた時のこと、ふと、顔を上げると店の窓越しに、彼女は高級車の助手席から降りて来る和也を目撃してしまった。
道路の反対側ではあったが、笑顔で片手をあげお礼を言っているのであろう彼は別人のようで、運転していた美しい女性は、歳は自分と同じぐらいなのだろうが、一目で住んでいる世界の違いが痛いほど伝わってきた。
そこは理穂の店からは、二百メートルほど離れた所であった。
( 明かに私に見られないようにしている! 彼女なの? なぜ隠すの? はっきり言ってくれたら私だって気持ちの整理ができるのに……
彼女の両親に反対されて影でこそこそしているのだろうか? でもそれだったらなぜ私に隠すの? 彼女がいることを知られたら追い出されるって思っているの? いや、そんな人じゃない! 彼女は誰なの……? )
その日から理穂の思いは、想像もできないような速さで膨れ上がっていった。
( 彼はいつか出て行くかもしれない、いやきっと出て行く。 私みたいなお好み焼屋の女が彼に似合うはずがない、もう止めよう。 だんだん辛くなっていく、もう止めようこんな思いは…… 店を手伝ってくれているだけでありがたい、それでいいじゃないの…… )
思いを懸命に打ち消して、諦めようとすればするほど、色を濃くしてくるその思いに、もう身動きが取れなくなってしまった彼女はただ迷路をさまよい続けていた。
その翌週の月曜日、和也が買い出しに出かけた後、午後二時過ぎのことであった。
高級感あふれる明るい紺色のスーツを身にまとった美しい女性の来訪に、理穂は驚いた。
「よろしいですか?」穏やかな笑顔で尋ねる女性に
「はい、どうぞ」
微笑んで応えた理穂ではあったが、その客が先だって和也を送って来た車を運転していた女性に何となく似ているような気がして、彼女は動機が打ち始めていた。
「あの、ソースの臭いが衣服にしみこむかもしれませんが…… 」心配そうに囁(ささや)いた理穂を遮って
「大丈夫です。評判のいいタコ玉が食べたくてやってきたんです」
笑顔がとても素敵な女性であった。
( 和也さんが好きになるわけだ、私なんか足元にも及ばない。でもほんとにあの時の女性なの? )
「このお店はお一人でされているんですか?」さわやかに尋ねる女性に
「いえ、従兄が手伝ってくれています」理穂は軽く微笑みながら答えた。
「そうですか、とてもきれいにされていますね」あたりを見回しながらその女性が感心したように言うと
「あっ、はい、ありがとうございます」
理穂は、お礼を言ったものの、なにか観察されているよう感覚の中で、
( あの時の人なんだろうか…… 何しに来たのだろう…… )
そう思って不安が募るばかりだった。
だが、彼女には尋ねる勇気もなかったし、尋ねてはいけないようにも感じていた。
この不安が連鎖を引き起こし、彼女はますます深いところに沈み込んで、その深いところでいつも、いつかはいなくなる人なんだから…… そう言い聞かせて気持ちに区切りを付けようとしていた。
しかし決意で打ち切ることができるほど、人の思いが単純でないことをいつも思い知らされて大きくため息をつくのだった。
出会い
斎藤和也が何か目には見えないものに魅かれるようにこの店の前に立ったのは一ヶ月と少し前、三月も終わりに近い日の午後のことであった。
うららかな春の日差しが穏やかで、すがすがしい思いの中で、朝、家を出た彼であったが、午後になって薄暗い雲に覆われた空はもの悲しくも見えるし、見えない力に背中をおされているようでもあった。
昨夜、父親と意見が食い違い家を出てきたが、父は母に頭が上がらず、気のいい人だということを彼は身をもって知っていたし、決して根深いものではなかった。
彼にしてみればしばらくは好きにさせてもらうよ、程度の思いしかなく、むしろ一枚の窮屈な服を脱ぎ捨てたような解放感に心はウキウキしていた。
ただ、母の悲しそうな顔を見るのは辛かったが、
( 母さんもそろそろ俺の呪縛から解き放たれて、何か見つけないと…… )
そう思うと、これが自然の流れのようにも思えた。
彼は二七歳、身長は百八十センチには満たないが、細身で色白な彼はさほど大きいとは言えないがさわやかな目が印象的で、育ちの良さが否めない好青年であった。
放浪の旅にでも出るのかと思わせるような軽装で、小さなバックを一つもってお好み焼屋の前に立った彼は、突然の雨に店の中に飛び込んだ。
午後二時であった。
「こんにちは!」小さな声で様子を伺うように店に入った彼は
「いらっしゃいませ」という明るい声にホッとして、最も奥の席に座るとメニューに目を向けた。他に客はいない。
店員はまだ二五~二六歳だろう、朗らかで明るいこの女性は身長百六十センチ前後だろうか、やや細めでショートカット、瞳が大きく、とてもかわいい感じがする。
清潔感に溢(あふ)れたエプロン姿のよく似合う人であったが、この古い建物にはやや不釣合いな感じもしていた。
彼は店の壁に貼られた《アルバイト募集》の文字に気を取られしばらく考えていたが、タコ玉を注文すると鉄板の火を付けにやって来たその女性に
「アルバイトを募集しているのですか?」何気なく尋ねた。
「えっ、はい、でも誰も来てくれなくて……」
半ば諦めているように話すその仕草がとても愛らしく、彼は彼女に少し興味を持ち始めていた。
「あなたの店なんですか?」和也が探るように尋ねると
「はい、祖母から引き継いだ店なんです」微笑んで答えた彼女の笑顔がどことなく寂しそうだった。
外を見ると雨は激しさを増して、行くあてのない彼はその雨の中をさまよう気にはなれなかった。
当てのないままこの店の前に立ち、雨によって店に入らされ、《アルバイト募集》の張り紙を見た。この流れは、この店に留まったら……といっているようでもあった。
「住むところがなくて困っているんですが、住み込みで雇っていただくわけにはいきませんか?」つい彼は魅かれるように尋ねてみた。
「えっ、住み込みですか?」驚いた彼女が大きな瞳を見開いて尋ね返すと
「はい、どんな所でもいいです、寝ることさえできれば、それでいいです」
彼女の困惑に気が付いていたが、この女性と店を気にいった和也は、とりあえずはここがいい、そう思って引き下がろうとはしなかった。
「二階は私の住まいなので……」
彼女はさわやかな青年に何の不安も感じなかったが、それでも男性と同じ屋根の下で生活するという不可解な思いが、彼女を後ずさりさせていた。
「一階に部屋は無いんですか?」
「はい…… 一階は材料置き場の奥に物置の部屋があるんですが、とても人が寝泊まりできるようなところではありませんし……」
柔らかく断わりたい彼女が懸命に説明したが
「見せていただけませんか?」 和也も引く気はなかった。
「でも、三食付きで五万円程度しかお支払いできないですよ……」
もうわかってくれるだろう…… そう思った彼女が条件を提示すると
「十分です。三食付いて寝るところがあれば!」
「でも、とてもあなたのような方が寝泊まりできるところではないと思うのですが……」
そう言いながら、不安そうに奥に入っていく彼女のその後ろ姿が不思議なほどに愛らしく、包み込んであげたい、そんな思いさえ起こさせてしまうよな魅力に彼は引き込まれそうになっていた。
「どうぞ、よろしかったら見て下さい」
声をかけられた彼が奥へ向かうと、四畳半程度の小さな部屋は古い建物の一角であることは否めなかったが、この女性の性格なのか清潔に維持されていて、窓の桟にはほこり一つなかった。
「全然大丈夫ですよ」一目見た彼は彼女に微笑んだ。
「えっ」
ここを見れば諦めるだろう、そう思っていた彼女はこれ以上断わる口実を見いだせなくて少し困惑していた。
「二階への入り口に鍵はありますか?」さわやかに和也が尋ねると
「えっ、あっ、はい、あそこのドアに鍵がついています」
「それじゃ安心です。私に襲われることはないですね」
「そんなことは……」
「それじゃー、今から働かせていただきます、いいですよね」
明るくさわやかに迫ってくる彼の強引さに
「あっ、はい…… 」
もうどうにもならない!
諦めた彼女が
「布団は、古いので良ければありますけど……」と言うと
「助かります」間髪入れずに彼が微笑んだ。
慌てて部屋の掃除を始めた彼女は、ああ、流されてしまった! 一瞬、そう思ったが、祖母の笑顔が頭に浮かんできた。
『流されて生きていくことと、自然の流れに身を任せることは、全然違うよ。人生、このままじゃいけない、変えなければ…… 何とかしなければ…… そう思いながらも何もできないのは流されている人生よね、でも納得して生きているのに、突然何かが起きたり、周囲の環境が変わったりして、変化を受け入れざるを得ない時に、それを受け入れていくのは自然の流れに身を任せていると言えるかもしれないね。
人生っていうのは、時々、小さな石や、大きな石が、ぽちゃんといって水面(みなも)に落ちてくるんだよ、その時にその波紋が創る意味を考えて、許される中で精一杯生きて行けばいいのよ』
祖母はいつもこう言っていた。
( そうか、誰も見向きもしてくれなかったアルバイト募集の張り紙に彼は目を向けてくれて、それも月五万円で一日働いてくれるのならありがたい。受け入れるのが自然の流れよね )
彼女はそう考えると少し気持ちが楽になった。
その夜は、彼女の考えで彼はとりあえず見学に徹した。
「どうでしたか?」
八時に閉店した後、彼女が笑顔で尋ねると
「私にも焼かせてみてくれませんか? 今夜の夕食にしたいです」
「えっ、お昼も食べたじゃないですか!」
「好きなんです!」
「そうですか、じゃあ何を焼きますか?」
「タコ玉と焼きそばにしたいのですが…… 」
「はい、じゃあ、私にも豚玉焼いてくれますか?」
「ごめんなさい、豚玉は焼けないです。肉の焼き具合が解らないんです」
「えっ」
「学生時代に行きつけの店で、いつも自分で焼いていたんです。だから結構自身はあるのですが、豚肉は、内側が心配で、焼き過ぎてしまうと表が焦げてしまうし、表が良い頃あいだと、中が心配で…… 自信がないです」
「大丈夫ですよ、何度か焼けばすぐにわかりますよ!」
「そうですか?」彼は嬉しそうに微笑んだ。
彼が焼き始めると、
「相当なものですね」その手つきに驚いた彼女が感心した。
彼女が口を挟んだのは豚玉の肉の焼き具合だけだったが、驚いたのは焼きそばの出来栄えで、キャベツを投入した後、あっと言う間にソースをかけた彼に、少し早い! 彼女はそう思ったのだが、出来上がりにベトツキ感がなく、自分が作るものよりもはるかにおいしいと感じた。
「おいしいですね、キャベツの焼き具合が早いかなと思ったのですが、ちゃんと焼けているし、水分が出てないからベトツキ感がなくて、私のよりはるかにおいしいです」
「なかなかのものでしょ!」和也は嬉しそうに微笑んだ。
「明日からは、あなたに焼いていただいた方がよさそうですね」
「えっ、いいんですか?」
「はい、お願いします!」
食事を終えた後、
「お風呂は一階にしかないので先に入って下さい」彼女が言うと
「家主さんより先に入るわけにはいきませんよ」和也はそう答えたが
「とんでもないです。女性の後の湯に男性が浸かるなんてだめです。先にお願いします」
どことなく古い考えのようにも思ったが彼は快くそれを受け入れた。
入浴を済ませ部屋に戻った彼は、昼間よりもさらに清潔感が増している部屋にきちんと布団が敷かれていることに驚いたが、布団に入ってそのほっこり感にさらに驚いた。
(昼間に天日干しをしてくれたのだろうが、いつの間にしたのだろう……)
「こうしてお日様にあてていると、夜お布団に入った時に、ふっくらして気持ちいいのよ」
そう言っていた母の笑顔が脳裏をかすめた。
(いや、雨だった! 何したんだろう……)
あの若さでここまでの気遣いができる理穂を見て、和也は今までに感じたことのない女性の魅力に少し心が揺れ始めていた。
翌朝、彼は厨房でネギを刻む音に目覚めた。まだ七時前であったが、起き上がった彼は洗面を済ませ
「おはようございます」彼女に挨拶すると
「おはようございます。よく眠れましたか?」とさわやかな挨拶が帰って来た。
「はい、おかげさまで……」
朝から理穂のさわやかな笑顔に触れた彼は、何かいいことが起きそうな一日の始まりにウキウキしていた。
これまでに経験したことのない狭い一室で一夜を過ごした彼であったが、考えたこともなかったこれからの日々がとても新鮮で、これまで企業の中で生きていくことしか選択肢のなかった彼は、ここで始まろうとしている新しい生活に心が躍り出しそうな期待感をもっていた。
「朝は、こんなものですいません」
厨房の一角にある二人掛けのテーブルの上に並べられた朝食は、卵焼きに焼いた干物、漬物に豆腐の味噌汁、炊き立てのご飯は米が立っていて、とてもおいしそうであった。
「とんでもないです。いつもこんなちゃんとした朝食を取っているんですか?」
「はい、身体が資本ですから、朝だけは何があってもちゃんと食べるようにしています」
「すごいですね、私なんか食べても食パン一枚、食べないことの方が多かったです」
「パン食の方がよかったですか?」
「いえいえ、お米の方がうれしいです」
その日の昼はいつになく客が多く、注文も多岐にわたっていたが、元来、起用で機転の利く焼き手の和也は難なくそれをこなし、理穂を驚かせた。愛想がよく笑顔で振る舞う彼はさわやかで、若い女性客の中には楽しそうに彼に話しかける人もいた。
客足の途絶えた二時前、注文していた弁当の昼食を食べながら
「人が多かった割に、豚玉が少なかったですね」理穂が話すと
「すいません、お薦めを聞かれた人にはタコ玉を勧めてしまいましたから……」
「そうですか、でも大丈夫だと思いますよ、昨日のタイミングで絶対に中は焼けていますから! 何でしたらおやつにでも食べて見ますか?」
「すいません、肉は駄目なんです。気持ち悪くて食べれないんです」
「えっ、牛肉もだめですか?」
「はい、すいません! でも夕食は気にしないで肉を使って下さい。肉の時は私は焼きそばでもさせていただきますので……」
「そうですか……」
四時前になると昨夜電話で状況を聞いた理穂の兄、英一夫婦がやって来た。
兄は理穂よりも六歳年上で、彼らの両親からすれば理穂は諦めていた時に授かった二人目の子どもで、英一にとってはこの歳の離れた妹のことが心配でならなかった。
「大丈夫なのか?」
「何が?」
「何がってお前、若い男と女がひとつ屋根の下で暮らしていくんだぞ!」
兄は心配そうだった。
「だって、二階の入り口には鍵だってあるし、それにそんな人じゃないから……」
一夜明けて不安の無くなった彼女はやや語気を強めた。
「お前、男なんてわからないんだから…… 仮面被っていたらどうするんだ!」
「そうよ、理穂さん、家へいらっしゃい、家から通えばいいじゃない」
「お義姉さん、ありがとうございます。でもさすがに新婚家庭にはお邪魔できないし、絶対に大丈夫ですから! それにむしろ女一人で過ごすよりね、特に夜は男性が下にいてくれると思ったら安心して眠れますよ」
「まあ、そういう考え方もあるが……」
「とりあえず紹介するから下に行きましょうよ」彼女は笑顔で兄夫婦を一階に促した。
「和也さん、ちょっといいですか?」部屋の前で声をかけると
「はい」そう言って出てきた彼を見て兄夫婦は少し安心したが、それでも育ちのよさそうなこの好青年が、天街孤独で住むところがないというのが、どうも不自然でならなかった。
挨拶を済ませた彼は気を使ったのかコインランドリーに出かけた。
「悪い人じゃないとは思うけど、こんなところでアルバイトするような人じゃないだろう…… 何かあるよ…… 」心配そうに兄が話すと
「そりゃそうよ、私だってそのくらいは想像できるわよ。でも、話したくないことだってあるでしょ、大事なのはその人がどんな人かということだと思うわよ。それに、誰も来てくれなかったのに、月五万円で一日中働いてくれるんだから、こんなありがたい話はないわよ!」
「えっ、月五万円なのか! それは気の毒だなあ……」
「そりゃ、状況見てもう少し払ってもいいと思っているけど…… 」
「でも、何かあったら絶対に相談してよ! この人だって心配でならないんだからね、そこはわかって上げてよ」
「はい、お義姉さん、心配かけてすいません」
こうして奇妙な二人の同居生活がスタートしたのだが、一週間も過ぎた頃には、さわやかな草食系男子を一目見ようと若い女性客が増えてきて、焼きそばの評判もなかなかのもので売り上げは順調に伸びていた。
夜の客の中にはアルコールをリクエストする者も増えてきて、理穂はせめてビールだけでも用意しようかと考えていたが
「それは止めた方がいいよ! 利益にはつながると思うけど、滞留時間が長くなるし、お酒が入ると性格が変わる人もいる。必ずトラブルは増えるし、心労が増すことになるから……」
和也はそう言って反対した。
( 確かに、その通りだ! また流されそうになっていた )
そんな反省をしながら、理路整然と語る和也に彼女の信頼感は少しずつ増していった。
四月も間もなく終わろうとしていた。
ゴールデンウイークに入ると、昼間の客が激減するのだが、この時期は、ゆったりと時間が流れ、心身ともにエネルギーを充填するのにいい機会でもあった。
「ゴールデンウイークの間は、お客さんも減るので、お休みして下さい、安いお給料でほんとに申し訳ないと思っています。せめてお休みぐらいはしっかり取って下さい」
理穂がそう言うと、
「とんでもないです。理穂さんこそどこか遊びに行って下さい。仕事に、家事に大変なんですから……」
彼はそう言いながら、まるで奥さんみたいだな、と思い、少し口元が緩んでいた。
「いいえ、私は特にしたいこともないので……」
「ところで話は変わるんですけど、おばあさんはいつ亡くなったんですか?」
「四年前です、ちょうど大学の一年が済んで二年になる春休みだったかな……」
彼女は思い出すように静かに答えたが、
「えっ、理穂さんは今何歳なの?」驚いた和也の問いかけに
「二三歳ですけど……」と答えたものの、彼女は何を驚いているのだろうかと不審に思った。
「そんなに若かったんですか!」
和也は、彼女は二五~二六歳、ひょっとしたら自分と同じぐらいかもしれないと思い始めていただけに思わず声に出してしまった。
「えー、もっと歳とっていると思っていたんですか?」
お驚いた理穂は大きな瞳をさらに見開いて責めるように尋ねた。
「いや、あまりにしっかりしているから、もう少し上かと思っていました。最初に会った時は顔だけ見て二十歳すぎかなと思ったんですよ。でも話していくうちにあまりにしっかりしているから、二五~二六歳なんだろうかって思い始めたんです」
彼は慌てて嘘をついてしまった。
「和也さんより四つ下ですから……」
「だけど、大学はどうしたんですか?」
彼は慌てて話題を変えた。
「やめました。兄は、お金の心配はいらないから店をたたもうって言ってくれたんですけど、お祖母ちゃんをずっーと手伝ってきましたから、この店のない生活っていうのがどうも想像できなくて…… 」
「それで大学止めて、一九歳の時からこの店を続けているんですか?」
「はい、最初は一人で大変でしたけど、慣れてくるとけっこう楽しくてここまで来てしまいました」
彼女は何かをかみ締めるように唇をきっと一文字にして遠くを見つめると、恥ずかしそうに囁いた。
「理穂さんて、何か人生とか真剣に考えているんですか?」
「そりゃそうですよ、お好み焼屋の女だって、人生はちゃんと考えていますよ」
彼女は目を見開いて馬鹿にしないでくださいよと言わんばかりだった。
「例えばどんな考え方するんですか?」
「何か難しい話になってきましたね」
「例えば、私を雇った時、どんなことを考えていたんですか、もし差支えなければ話してくれませんか?」
「あの時は、正直言って最初は断わりたかったんです。やはり男の人と一つ屋根の下って言うのは抵抗があって、だけど五万円でも泊まるところがあればいいって言われて、部屋もあそこでいいって言われて、もう断わる口実がなくなって流されてしまったって思っていたんですが、おばあちゃんのこと思い出して……」
「おばあさんは何を言っていたんですか?」
「流されて生きて行くことと、自然の流れに身を任せることの違いっていうのか……」
「すごいですね、私を受け入れるのは自然の流れと考えたんですか?」
「そうですね…… 誰も来てくれなかったのに、募集の張り紙を見てくれて、五万円でもいいって言ってくれる人がいて、その人はすごくよさそうな人で、この人を無理して拒むことの方が不自然だって思ったんです」
「おばあさんはそうして生きて来られたんでしょうね、私も人生の流れは大事にしたいと思っています。でもなかなか思うようにいかない。流れがそうなっているのに、望みと違っていたら、何とか理屈をつけて違う考え方をしようとあがいてしまいます。なかなか、欲望には勝てないですね」
「和也さんはどうしてここで働こうって思ったんですか。けっこう強引な感じがしましたけど……」
「店を気にいって、張り紙を見て、あなたを気にいって、それでここだと思ったような気がします。流されたのか、自然の流れに任せたのか、よくわからないですね」
かみ合わない思いはそれぞれに
この頃になると、ここまで一人で懸命にがんばってきた理穂に安堵の思いが募り、和也はその心のわずかな隙間に入り込もうとしていた。
店でのトラブルは全て彼が仕切っていたし、売り上げは順調に伸びて、わずかの間に彼はこの店に欠かせない存在となっていた。
( この人とだったら、幸せに暮らしていくことができるかもしれない…… )
決して胸が高鳴るような思いではなかったが、心に安らぎを感じるようになっていた理穂は誠実な和也にかすかな思いを寄せるようになっていた。
一方和也は、学生時代につきあった女性達とは全く異なる理穂に異次元の女性を見ているような錯覚におちいることがあった。
時間をかけて丁寧に髪を整え、濃い化粧をして美しく着飾り、ブランドもののバッグを手に外見を最も大事にする過去の女性達は一見華やかで『鮮明な赤』をイメージさせる人達であったことに加え、彼は友人達から「いい女だね」、「美人だね」等と称賛されることに喜びを感じ、彼女達の不可解な行動や感情には目をつぶっていた。
それに比べ、ほとんど化粧もしないで、汗をかきながらお好みを焼いている理穂は内面から整っている女性のようで、不思議と清潔感だけが際立っていて『淡い水色』を思わすような女性であった。
( やはり結婚するのなら、こんな女性が良いよな )
彼の思いは理穂を称賛しながらもまだ漠然としていた。
理穂は毎晩、店が閉店してから夕食の準備に取り掛かっていた。昼間の空き時間に下準備を済ませていたことに加え、手際の良い彼女は和也が後片付けをしている間に素早く夕食を作りあげていった。
時には外で食事をすることもあったが、恋人でも友人でもない二人が開かれた空間で向き合って食事をするのはどことなくぎこちなさが否めず、まるで共通の友人に紹介された二人が初めて食事をしているかのような、そんな雰囲気を醸し出していた。
ただ和也にとっては、理穂が彼の過去には絶対に触れてこないことがとてもありがたかった。
お互いに好感をもっていて、お互いに人として認め合っていて、さらにかすかではあるがお互いに心を寄せている。そんな二人が眠る時を除いては全ての時間を共有している。
まして、男と女である。
時間と共にそんな二人の思いが濃くなっていくのは当然のことであった。
理穂は時間と共に見え始めた彼の人としてのやさしさや思いやり、加えてその品格、知識、そして胸の奥に閉じ込めているのだろう彼の見えない過去に胸が押しつぶされそうになっていた。
( この人はこんなところで働くような人ではない筈、何があったのだろう、誰かから逃げているのだろうか?
何故逃げているの? でも人から逃げなければならないようなことをする人じゃない…… 人生に疲れたの?
まさか結婚していて、奥さんから隠れているなんてことはないよね。
解らない…… )
彼女は一人で空想を重ね、行き止まってはため息をつき、彼を雇うと決めた時には気にならなかった彼の過去であり、境遇であったのに、時の流れとともに今はそれらに惑わされるようになっていた。
それでも、そこに足を踏み入れることは、和也が去っていくことに繋がりそうで、彼女はその手前で留まってじっと耐えて待つことしかできなかった。
和也も同様であった。時の流れと共に穏やかで、細やかな気遣いができる理穂に心惹かれ始めていた。
( ここで一生暮らすことができたら、穏やかな時間が流れて行くんだろうな…… 人の煩わしさや会社の業績を気にすることもなく、静かな生活を維持できるんだろうなー。
こんな生活があるなんて考えたことなかったけど……
すごく平和だなー…… 彼女はどう思っているんだろう!
一緒になってもいいって思っているかなー……
でも、いつか呼び戻されるかもしれない、会社の状況によっては帰らざるを得ないかもしれない。そんなことになったら、彼女はどうするんだろう? ついて来てくれるのか、そんな生活は嫌だって言うかもしれない! )
彼は理穂の気持ちに気付き始めていた。
時折見せる切なそうな表情や、ふっと遠くを見つめてため息をつく彼女に気付いて、笑顔の少なくなった彼女に心苦しい思いを抱いていた。
( いつまでも彼女にこの思いを引きずらせてしまうのは、男として最低だ! でも実家のこともあるし、どうすればいいんだ!)
彼も理穂への思いと、斎藤グループの跡取りとして生まれた自らの責任との間(はざま)で身動きが取れなくなっていた。
二ヶ月が過ぎた頃、季節は紫陽花の時期に入ろうとしていた。
朝から晴れ渡った晴天の日、土曜日の午後、久しぶりに一人で店にやって来た理穂の義姉は彼女の異変に 気が付いたが、事をシリアスにしたくないと思った彼女は
「理穂ちゃん、好きになってしまったの?」軽い感じで尋ねてみた。
「えっ、お義姉さん! そんな……」俯いてしまった彼女は返事をすることができなかった。
「気持ちはわかるわよ!」
「えっ」
「だってイケメンだし、誠実そうだし、優しい人なんでしょ」彼女は優しい目をしていた。
「……」理穂は静かに頷いた。
「寝ている時以外は、いつも一緒なんだもの、二か月も一緒にいたら私だって好きになるわよ!」
「お義姉さん……」理穂は悲しそうに微笑んだ。
「彼のことは何かわかったの?」
「……」理穂は無言で軽く頭を振った。
「そう、何も話してくれないの?」
「でもいいです。いつかは出て行く人だと思っているし、仕方ないし……」
そう言いながら目頭を熱くする義理の妹を見て、義姉も胸が苦しくなっていた。
しばらく沈黙があったが
「週に一~二度しか会わない人だったら、そんな思いにはならなかったかもしれないのにね……」義姉がため息をつくように言うと
「そうかもしれないですね」理穂も俯きがちに答えた。
「こんな人と結婚して、店を続けていくことができたら、幸せな家庭が創れるかもしれないのに…… こんな漠然とした思いなんでしょ」
「えっ、どうしてわかるんですか?」
「そりゃ解るわよ、状況からして死にたいほど愛しているなんてことにはならないだろうし、そんなに深い話だってしたわけじゃないでしょ、ただ漠然といい人だなーって思う中で、この人と一緒になったらって考え始めたんだろうから……」
「私もよくわからないんです。愛しているなんて言えないし、ただこのまま結婚して一緒に暮らすことができたら幸せになれるんだろうなって思って…… だけどそんな思いしかないのに、結婚を考えていいのかって…… 死ぬほど愛しているっていう自信があったらちゃんと前向きに考えられるんだろうけど……」切なそうに話す理穂に
「だけどね、死にたいほど愛することができる人なんて、そんな簡単には巡り会えないわよ、ドラマやマンガじゃないんだから! 」義姉は言い切った。
「えっ、姉さんたちは違うんですか?」驚いた理穂が尋ね返すと
「えっー、そんな恥ずかしいこと言わないでよ、そんな訳ないじゃない!」
呆れたように彼女が否定した。
「えっ、お互いに死ぬほど愛しているのかって思ってました」
「おもしろいわねー、でも残念だけどそんないいものじゃないわよ」
「……」
「二五歳になっても彼氏がいなくてね、そろそろ結婚を考えたいのに…… なんて思っていた時、英一さんに誘われたの! お互いに教師だから経済的には楽に暮らせるかなって思ったし、彼は誠実で優しい人だし、私の周囲で考えればまあまあ良い方だった。最初はそんなものよ」
義姉はあっさりと言ってのけた。
「えっー、でもその後はどうだったんですか、絶対に結婚したいとか思わなかったんですか?」
「確かに付き合っていくうちにこの人とだったら幸せに暮らしていけるだろうなって思ったけど、絶対に……とは思わなかったわね、もし振られていたとしたら、『あっ、そう』って言って次の恋を探したと思うわよ」
「えっー、ショック!」
「結婚なんてそんなものよ、だって許される環境の中で、理想に描いたような人に出会える訳ないでしょ」
しばらく考えた理穂は
「そりゃそうですよね、私なんか、許される環境の中には和也さんしかいないし……」
そう言いながら、確かにその通りだと思って、少しがっかりした。
「だから皆、妥協しているとは言わないけど、許される環境の中で、そこそこの人に出会うと、その人が一番になってしまうのよ」
「へえー、何か恋愛って難しいですね」
「絶対にないとは言わないけれど、付き合っている男性との結婚を考えた時に、一00点じゃなくても幸せになれそうって思ったらほとんどの人は前に向って進んで行くんじゃないのかしら…… 」
「なるほどねー」義姉の話は淡白であったが、恋愛経験のない理穂は感心して聞き入っていた。
「夢のないこと言ってごめんなさいね、でもね、何か考え違いをしてしまうと夢だけ見て一生終わってしまうことだってあると思うのよ。私が大学卒業して今の学校に初めて赴任した時、三四歳の女性教諭がいたの! その彼氏は同じ学校の三六歳でとてもいい先生だった。でもね、二人は別れたのよ、その女性が言うには『何か足りないのよ、もっといい人探すの!』って言ってた。
その人はもうすぐ四十才、未だにいい人に巡り会えないって嘆いているの……」
義姉が呆れたように話すと
「へえー、悲惨ですね」理穂は目を見開いて驚いた。
「そりゃほんとに大変よ、四0女のお眼鏡にかなう男がいると思う? そりゃ、新採用の教師なら、生気がよくて、イケメンで、スタイルも良くてさわやかなのがいるかもしれないわよ、でも養子をもらうんじゃないんだから! 結婚相手探しているんだから……」
「お姉さん、おもしろい、確かにそうですよね」理穂が微笑むと
「ついむきになって話してしまったけど……」義姉はふと我にかえると照れくさそうに笑った。
「いいえ、楽しかったし、勉強になりました」
「だからさ、燃えるような思いじゃなくても、この人とだったら幸せな家庭が創れるかもしれないっていう理穂ちゃんの思い、大事にした方がいいと思うよ、無理して諦めようなんて考えない方がいい。縁があれば自然に流れて行くわよ。、だから苦しい思いして、止めよう、止めようなんて考えないで! そりゃひょっとしたら悲しい結末になることだってあるかもしれない、でもその時はやけ酒飲んで『馬鹿野郎』って叫ぶのよ、私もつきあってあげるからさ……」
明るく話す義姉に
「ありがとう」理穂は救われたような思いがしていた。
怪しいセレブ
一方、斎藤の家では和也が出て行ったあと、母親の玲子はその苦しい思いをあるがままに夫である和也の父、真一に吐き出していた。
妻に頭の上がらない彼は、一週間もすると参ってしまい
「勘当なんて、売り言葉に買い言葉じゃないか! 本心じゃないよ」
そう言い訳したが
「じゃあ、和也を探して、家に連れて帰って来てよ!」
それでも玲子は出ていってしまった最愛の息子が愛しくて厳しい言葉を夫に浴びせ続けていた。
「だから、今エリカが探しているよ……」
「何よ、ふん」玲子の機嫌は治らない。
エリカは、(居場所だけは聞いておかないと……)
そう思い、兄が出て行った日の夕方に電話を入れたのだが
『しばらく一人で考えてみたい。落ち着いたら電話するからそれまではそっとしておいてほしい。母さんのことをよろしく頼む』
メールで返信してきた兄をこれ以上、探索することはできなかった。
だが、ゴールデンウイークが明けると和也からエリカに電話が入った。
「ママ、兄さんのいるところ、わかったわよ!」慌てて母親に連絡したエリカに
「えっ、どこにいるの? 何しているの?」
驚いた玲子はうれしさのあまり矢継ぎ早に質問を繰り出す。
「本社近くのお好み焼屋で住み込みしているらしいの!」
「何それ!」玲子はしばらく考えていた。
「よくわからないけど……」
「好きな娘(こ)でもいたのかしら……」玲子には想像がつかなかった。
「とりあえず、今日、会って来るから……」
「そう……」
「ママは行かないの?」
「行かない、私が行って泣き出すとあの子も辛いから…… 私のことで悲しい顔するあの子は見たくないの……」
気の強いこの母も、和也のことになると切ない表情を見せる。
「やっぱりね、そうだと思った」
「何よっ!」
「私も同じあなたの娘なんですけど……」
少し突っかかるような感じであったが、決して責めてはいない。
「いいじゃない、あなたは放っておいても大丈夫よ、でも和也は……」
やはり和也を思うこの母は切なそうであった。
「はい、はい、わかっていますよ、だからこうして動き回っているんでしょ」
この娘は、和也を思う母の切なさを痛いほど知っていた。
「ありがとう、あなたには感謝している!」
理穂が、美しい女性に車で送ってもらった和也を目にしたのはこの日であった。
エリカから状況を聞いた玲子は安心して、しばらくは静かに生活していたが……
一ヶ月も過ぎた頃には、そのお好み焼屋の女性のことが気になって仕方なかった。
一度店の様子を見に行ったエリカから、いくらかの話は聞いていたが、和也は腰を据えてしまった感じがするし、何よりも玲子は二人が同棲をしているような錯覚に陥ってしまい、とりあえず、その女性を一目見ておきたいと思っていた。
再びイライラし始めた玲子は、夫の真一にあたり始めた。
「エリカ、何とかしてくれよ、頼むよ」
父親に泣きつかれた彼女は、この両親だけは、いかげんにして欲しいわ! そう思いながらも母親の部屋へ行くと
「ママ、一度、様子を見に行ったら……」と勧めたが
「でも和也が……」悲しい顔を彼に見せたくない玲子は踏み切れない。
「大丈夫よ、兄さんは毎日二時を過ぎると買い出しに出かけるから店にはいないのよ」
「えっ、そうなの!」
喜んだ玲子はその翌日三時前に出かけた。
「よろしいですか?」
軽装にまとめてはいるが、どこかのセレブに違いない、そんな女性の訪問に理穂は唖然としていた。
「はい、どうぞ……」と答えたものの、何故か不可解であった。
以前にも和也の彼女ではないのかと思える女性がやって来て、そして今日、またこんな訳のわかんない女性が……
「お一人でなさっているの?」何とも上品な話し方に理穂は少しあわてたが
「いえ、従兄が手伝ってくれています」懸命に平静を装って答えた。
「そうなの、その方かしら…… イケメンの店員さんの焼きそばが評判ですよね」
「ありがとうございます」
「今日はそのイケメンさんはいないのかしら?」
( 和也さんのことを探っている…… )
「はい、今買い出しに出ていまして、すいません」微笑もうとするが顔がひきつってしまった。
「いえ、とんでもないですよ、お薦めは何ですか?」
今までに接したことのないような品の良さに理穂は少し頭がくらくらし始めていた。
「タコ玉がいいかと思いますが……」
「じゃあ、それをお願いします」
「はい……」
( 明らかに和也さん目当てにやって来たんだ、誰なんだろう…… パトロンか? この人は逃げた燕を追いかけてきたのか? うー、わからない…… )
思いがけないことが起こるたびに、理穂の心は迷路をさまよい続けた。
動き始めた思い
かすかではあってもお互いに思いを抱えてしまった二人は、日々の生活の中で少しずつ歯車が狂い始め、笑顔で冗談を言い合っていたその関係はよそよそしくなっていった。
和也は焦っていた。
( 俺のせいだ、彼女の笑顔がひきつっている…… 何とかしなければ…… )
それでも思い切りのつかなかった彼の背中を押したのは理穂の兄であった。
七月の初め、「理穂に内緒で会いたい」
彼女の兄、英一からの連絡を受けた彼は、午後二時、梅雨の雨が激しく降りしきる中、指定されたカフェに出向いた。
「和也君、君が来てからもう三か月になる。店も順調でありがたいと思っている。君がもうあの店に欠かせない存在になっているのもわかっている」
「ありがとうございます。お兄さんにそんなに言っていただくとうれしいです。」
( 恐らく、理穂のことなのだろう…… )
そんな予感を持って出向いてきた彼は、
( 何を切り出してくるのだろう、場合によっては思いを打ち明けたい )
そんな決意を持っていた。
「非常に話しにくいのだが、理穂の気持ちには気づいているよね?」
彼はまっすぐな視線を和也に向けると、静かに念を押してきた。
「はい」彼は静かに目で頷いた。
「あの子は、高校の頃から祖母の店を手伝って遊ぶことはほとんどしなかった。だから彼氏がいたこともない。今の思いは、初めての経験だろうと思う。笑顔だけが取り柄なのに、最近のあの子はいつもあんなに辛そうな顔をしている…… もうこれ以上あんなあの子を見たくないんだ、勝手な話をしているのはよくわかっている。 だけど、もし君にその気がないのなら、静かに去って欲しい!」
彼は苦しい胸の内を語った。
「お兄さん……」
「私たちは幼い時に両親を亡くして、祖母に育てられたんだ、今はその祖母も亡く、私にとってはたった一人の血のつながった肉親なんだ、わかって欲しい!」
低い声で続ける彼の持っていき場のない思いが痛いほど伝わってきた。
和也は俯いたまま呼吸を整えると
「申し訳ないです。はっきりさせないでずるずると来てしまいました。私は理穂さんと一緒になってあの店でずっと暮らしていくことができるのであればどんなに幸せだろうっていつも思っていました、でも……」
和也がそこまで話した時に英一が遮った。
「君が何かを背負っているのはわかっている。その先は話したくないんだろう、いいよ、そこは話さなくていいよ、罪を犯して逃げている訳じゃないだろ……」
「そんなことではありません……」
「じゃあ、いいよ! 話したくなるまで待つよ。だから、理穂への思いがあるのなら、あの子を今の泥沼から救い出してやって欲しい!」
和也の思いを知った兄は余計な弊害は排除したかった。
兄からすれば和也が大事な妹を託す男になるのであれば、彼の背負っているものを是が非でも知りたかったが、そのことが彼の妹に対する思いの弊害になるのであれば、待つしかないと結論せざるを得なかった。
兄の切ない思いであった。
「ありがとうございます。ずっと身動き取れずに悩んでいました。ほんとにありがとうございます」
和也は胸のつかえがとれたようなさわやかな思いで礼を繰り返した。
「でも、将来、何があってもあの子を置いて出て行くようなことにはならないよね」
「もちろんです。絶対にそんなことはしません」
カフェを出ると、雨は上がり時折晴れ間がのぞいていた。
その夜、堤が破れたかのように運命の川がごう音とともに流れ始めた。
「理穂さん、後から話したいことがあるんだけど……」
彼がこんなことを言うのは初めてであった。
( 出て行くのかもしれない…… )
そう思った彼女は、胸が苦しくなって
「はい……」小さな声で答えるのが精一杯であった。
片付けが済んだ後、二人は店のテーブルで向き合っていたが、理穂は俯いたまま顔を上げなかった。
( 出て行くって言えば、気持ちよく送り出してあげよう )
気持ちの中でそんな思いきりが付いた時だった。
「理穂さん、結婚してくれませんか?」突然切り出した和也に
「えっ」顔を上げた彼女は何が起きたのかわからなかった。
「君とずっと一緒にいたい! 結婚してくれないか?」重ねる和也に
頭が真っ白になっていた理穂は、その言葉を理解すると突然両手で顔を覆って泣き始めた。
「ごめん、君の気持ちには気づいていたし、俺もずっと君のことを思っていた。でも気にかかることがあって……」
彼は理穂の隣に移動すると、彼女の肩に手を回し、包み込むように語りかけた。
「……」無言で顔をおおったまま頭をふる彼女だったが
「今は話したくないことがあって…… 」
「いい、そんなことどうでもいい! 一緒にいてくれるんだったら、どうでもいい、死ぬまで聞かなくてもいい!」
涙にぬれた目を上げて彼女は和也に抱き着いた。
その夜、和也は初めて二階へ上がり、彼女のベッドで二人は結ばれた。
その翌日、朝から晴れ渡った日であった。和也が二八歳の誕生日を迎える直前、二人は入籍し正式に夫婦となった。
電話で連絡を受けたエリカが母親にそのことを話すと、彼女は和也の実母の遺品をエリカに託した。
和也の実母が彼の父から送られた婚約指輪は、一カラット、カラーグレードはE、カットはExellent、クラリティはIF、GIA発行の鑑定書がついていたが彼にはよくわからなかった。
彼は、「母の形見なんだ」と言って理穂にそれを渡した。
せめて写真だけでもという兄夫婦だったが、お金がないであろう和也を気遣って、理穂は頑なにそれを拒んだ。
こうして結ばれた二人は、幸せをかみ締めながら静かに時を刻んでいった。
理穂は夢のような毎日に、太陽のような笑顔を振りまきながら一日一日を過ごし、店も順調で固定客も増え、わずかではあるが売り上げも右肩上がりになっていた。
夏はサラリーマンの数は減るものの、学生の数がそれを上回り、何とか売り上げを維持することは可能であった。
秋になると、気候に恵まれた中、木曜日の休みには必ずといっていいほど二人で出かけた。
ショッピングをしていると、理穂は赤ちゃんを抱いた母親に目を奪われ、振り向いてまで二人を見つめていた。
彼女は子どもが欲しくてならなかったのだが、その兆候が表れないことに少しいらだっていた。和也は二八歳、自分は二四歳、子どもはその気になれば直ぐにできるものと思っていたが、世の中には妊活している人があまりにも多いことを知って驚きと不安に押しつぶされそうになっていた。
和也は不安を語る理穂に
「大丈夫、たまたま今はその時期じゃないだけ…… 色々なものが整ってくるとそういう流れになってくるよ、今まで一人で頑張って来たんだから、もう少し新婚生活を楽しみなさいって言っているんだよ」優しくそう言って慰めるのであったが、
「ありがとう、なんか安心した…… でも、それ誰が言っているの?」まじめな顔で尋ねる彼女に
「えっ!」驚いた彼も一瞬、誰だろう? と思ったが、
「俺が言っているから間違いない」と言い切った。
「もう、和也さん、結構いい加減なところがあるのね…… 昔もそうやって女性を口説いていたんでしょ、聞いたんだからね」
「えっー、誰から聞いたの?」
「知らないわよ!」
「ははははっ、理穂!」
ただ、この頃から時々ではあったが、信也は斎藤グループの社員たちのひそひそ話をよく耳にするようになっていた。
つい二~三日前のことである。
「人事部長が、資料室に飛ばされたらしいよ」
「社長の命令らしいよ」
「違うよ、社長が何も言わないから、社長秘書が好き勝手やっているんだよ」
彼はこんな話を聞いて、少し不快感を覚えていた。
つい先週にも、
「また、社長命令だってよー」
「どうなってんだ、社長、ちょっとおかしいよ」
こんな小声の会話を耳にしたばかりで、少し心配になっていた。
それでも、専務と常務が支えてくれるだろう、二人のことをよく知っている彼はできるだけ考えないようにしていた。
初めての正月は理穂の兄夫婦に招かれ、初めて理穂の両親と、祖父母の仏壇に手を合わせた。
義姉の実家から届いたという豪華なおせち料理をいただきながら理穂の高校時代の話に花が咲いた。
「この子はね、大学はやめてしまったけど、英語はペラペラなんだよ」兄が話すと
「そう言えば、いつかお店に外人が来て、困っていた時、彼女が何か話したら、直ぐに出て行ったことがあったなあ…… でもすごいなー どこで勉強したの?」
「独学なんだよ」
「えっ、ほんとなの?」和也が理穂を覗き込んだが彼女は小さく顔を振って微笑んでいるだけだった。
「とにかく外国人捕まえて話しするんだよ」
「えっ、それほんとなの?」
「お兄ちゃん、もう止めて、恥ずかしいから!」
「えー、私も聞きたい、理穂ちゃんってそんな娘(こ)だったの?」義姉が少し驚いたように尋ねる。
「いや、すごい、俺も聞きたいです」
「当時は、とにかく、道であったらすぐに話しかけるんだ、上手く話せなかったら、『あの人はきっと方言を話してたのよ』って言って、絶対に落ち込まない」
「はははっ、想像できない!」
「お兄ちゃん!」
「いいじゃないか、俺もあの頃はお前のことを尊敬していたよ」
「英会話のCD買ってやったら、いつも聞いてたし、外国人に会えなかったら、ホテルへ行くんだよ」
「なるほど、ホテルなら可能性高いですよね」
「一度はフロントで叱られたことがあるらしいよ、でもそこの外国客担当の女性が何か資料貸してくれたんだよな」
「そう、なんか接客用のマニュアル! これ覚えたら支配人に話してあげるって言われて……」
「それで覚えたの?」
「もう必死で覚えたわよ、それで支配人に許可もらって、土日は、制服着てその担当の人のお手伝いさせてもらっていたの……」
「でもお前、アルバイト料もらっていただろう」
「そう、一時間に二000円もいただいてびっくりしたわよ!」
「それは、それだけの価値があったんだね、その担当の人もだけど、その支配人もすごい人だね」
「いい人だったわよ」
「何がすごいって、女子高生に勉強させてやっているんだ、そのくらいの手伝いは当然だろうって考えるか、たとえ相手が女子高生であっても、その価値がある人にはその対価を支払うのか、そこだよね、勉強してそこまでの価値を人に認めさせた理穂もすごいと思うよ、でも女子高生のそれを受け入れたその支配人はすごい人だと思うよ」
「なんか、そんなに褒められると照れちゃう……」理穂は恥ずかしそうに俯いた。
「そう言えば、時々電話口で英語を話してる?」和也が思い出したように尋ねた。
「ええ、ホテルが困った時に電話してくるの……」
「えっー、それどういうことなの?」驚いた和也が続けて尋ねると
「ホテルだっていろんな英語を話せる人はそんなにいなくて、特に後進国から来た人の英語って、けっこういい加減なところがあるから、きれいな英語しか経験したことのない人はまず対応できないの、人手が足りなくてどうにもならない時には、電話口で私が通訳してあげるの…… 」平気でそんなことを口にする理穂を見て、三人は唖然としていた。
「えっ、何か変?」 三人がポカンと口を開けて自分を見つめていることを不思議に思った彼女が、皆を見回すように問い返すと
「ははははっはっ、お前、そんなことしていたの?」兄は笑うしかなかった。
「理穂ってすごい人なんだなー、感心するよ」
そして結婚して初めての春を迎え、暖かい日差しに幸せな日々を送っていた理穂は、子どもが欲しくてどうしようもない時期があっことも忘れ、GWには、休みをとって二人でどこかへ出かけたいと考えていたが、突然の吐き気に慌てて病院へ出向くと、妊娠していることを告げられ、幸せの上に覆いかぶさってきたさらなる幸せに、いくらかの不安を覚えたが、和也の笑顔がそんなつまらない思いは吹き飛ばしてしまった。
第二章 母の思い
和也への思い
斎藤の家ではエリカが、結婚して間もなく一年になる兄を心配していた。
「兄さん、一生あそこで生きて行くつもりなんだろうか?」
「今まで考えたこともない幸せを見つけてしまったんだから、そうなっても仕方ないわね」
玲子はふっと遠くを見つめて、諦めているようでもあった。
「ママ、どうしたの? えらく寛大だね」
「見てしまったのよ……」
「えっ、何を見たの?」
「一度あの子の顔が見たくて、夜お店に行ったのよ、もちろん外から見ただけよ、だけどあんな幸せそうな顔、見たことない。楽しそうにお客さんとお話ししながら焼きそばを焼いていた。悲しい思いの中で生きてきた子だから、小さい頃からあまり笑う子供じゃなかったのよ…… だからあの子が少しでも笑ってくれるとうれしくて、うれしくて……
「そうだったの……」
「なのにあんな笑顔で…… あの子があんなに笑っていられるのなら、あそこで生きていってもいいわよ…… 」
「そんなこと初めて聞いたわ! 確かに言われてみればあまり笑う人じゃなかったわね、笑っていてもどこか作り笑いみたいなところがあって…… 理穂さんのおかげなのかな? 」
「そうね、間違いない、確かに素敵な女性よね、何より和也を幸せにしてくれている。これが一番よ。あの子が幸せならそれでいい…… 」
「この家のこと、話したのかなー」エリカが呟くように言うと
「たぶん、話せなくて困っていると思う」
「そうなの?」
「あの子はあの静かな世界で生きて行きたいのよ、理穂さんだってきっとそうなのよ。その理穂さんに斎藤グループの跡取りだってことを知られたら、彼女が離れて行くかもしれないって、あの子はそれが不安なのよ。だから絶対に話していない……」
「やっぱりねー」エリカが小さくため息をつく。
「でもいつか会社を継がなければならない時が来たら、その流れは仕方ないと思っているはず、その時は理穂さんもわかってくれると思っているはず、だけど今はその時じゃない、あの子は絶対にそう考えている。だけど、できることならこのまま生きて行きたい…… それが本音だと思う」
玲子が一点を見つめながら静かにに話すと
「ママ、すごいわね、さすが兄さんと一身胴体! でももう駄目よ、兄さんは理穂さんのものよ、あの二人の中に割っては入れないわよ……」
「わかっているわよ、あの子の奥さんになる人にあの子を引き渡すまで…… そう思って懸命に育ててきたのよ、ここまでだってことは痛いほどわかっているわよ!」
それは懸命に自分に言い聞かせているようで、その寂しそうな母を見て、私も早く結婚しよう、エリカはそう思っていた。
夏前、久しぶりに店に行ったエリカは理穂の妊娠に気がついて驚いた。結婚して一年になるのだから、妻が妊娠しても全然不思議ではないのだが、思ってもいなかったことで、加えて母に孫ができるという現実が彼女に大きくのしかかってきた。
玲子も和也が結婚して以来、時々店を訪ねては名乗ることのできない息子の嫁と世間話をしていた。
( ママもその内には気が付く、また心配してあれこれ言い始めるなー、でも良いことなのにそんなことで悩んでいたら罰が当たるか…… )
予定が二月であることを聞いた彼女は、家へ帰ると
「ママ、理穂さん、子どもができたみたいよ」
「えっ、いつできたの!」
「何言ってるのよ、お腹の中よ!」
「あっ、そりゃそうよね……」
初めての孫
その翌年の二月、理穂は元気な女の子を出産し、綾と名付けた。
彼女の産前産後は大変であったが、アルバイトも見つかり、和也はこの時期を何とか乗り切ることができた。
この子はすくすくと育ち、笑うと引き込まれてしまいそうで、理穂に似て瞳の大きな女の子であった。
出産前からイライラし始めた和也の母、玲子は、無事に出産したことを聞いて一安心したが、その後は孫に会いたくて自分では感情をコントロールできなくなっていた。
和也の結婚や、理穂の出産は父親には伝えられていなかったので、彼は妻の再びの変貌に驚き、またエリカに助けを求めた。
「母さんはどうしたんだ、まだ和也のことで怒っているのか? あの子の居場所がわかって落ち着いていたんじゃないのか!」
困惑する父に
「そんなこと知らないわよ! だいたい夫婦の問題は夫婦で解決してよ、私だって忙しいんだから!」
そうは言ってみたものの、エリカはやはり母のことは心配であった。
母の部屋へ出向いた彼女は、
「ママ、会いに行きなさいよ……」
「えっ、でもねー」
「あのさー、今はね、子育てで大変だから、一時半から兄さんが買い出しに出ると五時半まで店は準備中の札がかかっているのよ……」
「それじゃー、チャンスはないじゃないの!」
「だからね、準備中の札に気が付かないふりして店に入るのよ、そしたら絶対に赤ちゃんの気配があるはずよ、そこをきっかけに、『私も同じぐらいの孫がいるんだけど訳があって会えないの』とかなんとか言ってさ、抱かせてもらうのよ!」
「あなた、天才ね、娘で良かったわ、絶対に父さんの側にはつかないでよ!」
一瞬微笑んだ母親は、娘に念を押した。
「大丈夫だって!」
その翌日の午後、玲子が和也の店を訪ねると、確かに入り口に『準備中』の札がかかっていたが、さすがにこれに気が付かないというのはあり得ないと思った彼女は
「こんにちは、どなたかいらっしゃいますか?」静かに尋ねると
「はーい」明るい返事とともに理穂が生まれてまだ三カ月にもならない綾を抱いたまま出てきた。
顔を上げた理穂は時々訪ねて来ていた女性だと気が付くと微笑んで
「すいません、この時間は休ませていただいているんです」
彼女が我が子をあやしながら話すと同時に、
「まあ、赤ちゃんができたの? それでこの時間はお休みだったのね、何かあったのかと思って心配になって、覗いてみたの?」
「ありがとうございます。もう初めての子で身内もあまりいないもので、けっこう大変で仕方なく……」
「そうだったの……」玲子は微笑みながら近づくと
「かわいい、私にも三か月の孫がいるんだけど、遠くにいるから抱くことができないの…… お願いだから抱かせてくれない?」あまりにも切なそうな話に
「ぜひ抱いてやって下さい! 助かります」理穂は微笑んで静かに綾を玲子に預けた。
「かわいい……」
こんなに深く暖かい愛情を持った女性に抱かれて、赤ん坊がぐずるはずはなかった。
その子は、穏やかな顔をして静かに眠り始めた。
「すごい、お上手ですね……」感心する理穂に向って
「……」玲子は無言のまま幸せそうな表情を浮かべ、軽く頷いた。
「このまま抱いているから、少し横になったら……」優しく囁いてくれるこの女性に
「ありがとうございます、でも大丈夫です」理穂はそうは言ったものの、椅子に座ったままうたたねを始めた。
( 一人で頑張って、疲れているのね )
玲子はそう思いながらうれしそうにすやすやと眠る孫を見つめていた。
二十分後、はっとして目を見開いた理穂はどきっとした。
「すいません、長いこと……」
「大丈夫よ、私はこんなかわいい子を抱くことができてとても幸せ……」
「ありがとうございます、代わりましょうか?」
「もう少しだけ、お願い!」
「私はありがたいですけど、疲れますよ、もう下におろしても大丈夫と思いますけど……」
しばらくして、店に置いてあったスイングチェアに綾をそっと降ろした玲子は
「ありがとう、とてもうれしかったわ、これからも時々抱かせてもらいに来てもいいかしら……」
「えー、助かります、是非来てください!」
喜んで答える理穂に玲子は嬉しそうに頷くと帰っていった。
( 和也さんと関係がある人かと思ったけど、何でもないのか )
夜、その話を聞いた和也は
( 母さんか? ) 一瞬そう思ったが、そのことは考えないようにした。
自分がどれほど愛されているのかを知っている彼には、母の思いが痛いほどわかっていた。
会えば彼女は涙を流す、それを目にした自分は母の愛と自らの思いの狭間で辛い思いをすることになる……
それが解っている母は、自分の前には絶対に姿を見せない……
幼い頃からこの母の愛情をあふれるほど受けてきた彼は、母がそう言う人であることをよく知っていた。
だから、ここを考え始めると、彼は前へ進めなくなってしまう。そのため、(母さんか?)という思いは彼の頭の中で直ぐに別の話題にすり替えられた。
その後、月に一~二度のペースで足を運んだ玲子は、孫の寝顔を瞼に思い浮かべながら穏やかな日々を過ごしていた。
綾が歩き始め…… 言葉を片言で言うようになり…… 玲子は孫に会いに行くのが楽しくてならなかった。
時には手を引いて外を散歩することもあったし、綾の洋服を買ってくることさえあった。
話を聞いて、その女性が間違いなく母親であることを確信した和也は、幸せそうに綾に触れる母の笑顔を瞼に浮かべ、母への罪悪感が薄れていくことに安堵していた。
そのため
「洋服までいただいてしまって……」と気にする理穂に、
「いいじゃないか、その人の楽しみになっているんだろう、それを奪うのは気の毒だよ、こっちだって助かっているんだし、気持ちよく甘えさせてもらおうよ」
そう言ってただ一つの母の幸せを守ってあげたいと考えていた。
それぞれがそれぞれの思いの中で、何とか気持ちをやりくりしながら、一日一日と日が過ぎて行き、彩は二月で二歳になろうとしていた。
この間、綾に会いに来る玲子はとても幸せそうでだった。
時には綾が風で高熱を出して慌てる理穂に付き添って病院へいき、なかなか熱が下がらない綾に胸が締め付けられるような思いをしたこともある。
中耳炎になった綾を風邪気味な理穂に代わって一人で病院へ連れて行ったこともある。
幼い子の日々は決していいことばかりではないが、それでも玲子はこの孫と共有する時間が幸せだった。
自らが風邪をひいて咳が止まらない時は、どんなに会いたくても綾ちゃんにうつすと大変だからと、ひと月近く孫に会うのを我慢したこともある。
しかし、二歳になった綾が四月から保育園に通い始めることを聞くと、
確かに大事なこと! 頭ではそう理解しても、入園の四月が近づいてくると、春にも拘わらず心に風穴の空くようなやるせない思いに、家での玲子はふさぎ込むことが多くなった。
母のことを考えた和也は、保育園への入園をせめてもう一年遅らせたいと思っていたが、「そろそろ集団生活に慣れさせていかないと……」と言う理穂の考えももっともで、止む無く納得せざるを得なかった。
だが理穂も、綾に会うことを楽しみにしている女性のことが気にはなっていた。
下種(げす)の勘違い
和也は何とか土曜日を利用して、母に綾と触れ合う機会を創ることができないかと考え、エリカに連絡をとった。
四月の第一週目の木曜日であった。
店から一kmほど離れたカフェモカという店で待ち合わせた二人は人目を忍ぶように話し始めた。
「母さんの様子はどう?」
「うん、二週目まではお昼帰りだから会いに行けるって、でもその後はやばいかもね……」
「そうかー、お前にばかりに迷惑かけて申し訳ないなー」
「それは仕方ないと思っているけど、何か考えておかないと目に見えているからねー、あんなに綾ちゃん、綾ちゃんって言ってたのに、全然会えなくなったらねー……」
「そのことなんだけど、土曜日は買い出しにはいかないけど、二週に一度ぐらいは家にいないようにするから、何かあったらよろしく頼むよ」
「そうね、それができればどうにかなるかもしれないね」
「うん、申し訳ないけど…… だけど母さんは、俺が母さんに気づいていること、知らないんだよね?」
「うーん、口にはしないけど…… でもわかっているんじゃないの?」
「えっ、そうだろうか」
「だって、あなた方親子はいつもそうだったじゃないの、お互いに思ったり考えたりしていることがわかっているのに、お互いそれに気づかないふりして、そうやって来たじゃないの……」
「えー、そうなのか?」
「私は小さい時から、ずっーとそれを見てきたのよ! 『この親子は何なのよ』っていつも思ってたわよ」
「すごいところ見てたんだなー」
「お互いに出たり引いたり上手にバランスとって…… でもね、綾ちゃんのことについては次元が違うような気がするよ。兄さんの居場所が解らなかったり、理穂さんを一目見たくてイライラしたりしていたのとは、全く次元が違う。何か起きれば大変なことになるような気配がある……」
「おい、脅かすなよ」
「脅かすつもりはないけど、だけどね、綾ちゃんに会った日はすごいんだから! 『私を見て笑ったの』とか『小さな手だからそっと握るのよ』とか、とにかく一時間ぐらいは話を聞かされるから……」
「すまないなー」
「兄さんが人生の流れを大事にしているのはよくわかるのよ、でも私から見ると、その流れは全てを理穂さんに話すべき時が来ているように思うんだけど……
兄さんだってそれを感じているけど、できることなら会社に関わらずに生きて行きたいって思っているから、無理やりに理屈つけて、『今はまだその時じゃない』って自分に言い聞かせているんじゃないの?」
エリカはここまで言いたくても我慢していたことを口にした。
「さすがに母さんの血を継いでいるだけのことはあるなー、鋭いところついてくるね」
「それにねー、会社のこともちょっと心配なのよ、色々調べてみると、けっこう訳わかんない社長命令が出ていて、あり得ない人事異動があったり、突然、海外へ飛ばされる人がいたりで、ちょっとおかしくなっている感じがするの、まあ、専務、常務がいるからとんでもないことにはならないと思うけど、父さんにももうちょっと、しっかりしてもらわないとね」
「そうなのか……」和也は苦笑いしてふと遠くを見つめた。
兄がこういう仕草をするときは、他人の意見に耳を傾けて懸命にそれを考えている時であるということを知っているエリカはこれ以上彼を責めなかった。
テーブルの上に両手を出していた和也の左手の上に、エリカはそっと右手を添えると、
「兄さん、大丈夫! 理穂さんは絶対に兄さんについて来てくれるって!」
微笑みながら彼の目を見つめた。
それを離れた所からそっと見ていた者があった。
斎藤グループ人事部人事課長の小橋である。
会長の娘に気付いた彼は、最初は気にも留めていなかったのだが、見ているうちに深刻そうに、そして親密にこそこそ話している二人にただならぬ気配を感じ、加えて手を添えて見つめ合っている二人を見て彼は不倫かと一瞬思った。
よく見ると男性の左薬指には指輪が入っている……
不倫に間違いないと直感した彼が、ただちにそのことを会長秘書の町田にご注進し隠し撮りした写真をメールで送ると、エリカのことが目障りでならなかった町田は喜んでその日付と時間、場所をメモに残した。
写真は和也の左斜め後ろから取っていたので微笑んだエリカが和也の左手に自らの右手を添えていて、その隙間から彼の薬指の指輪がはっきりと見えてはいたのだが、肝心の和也の顔は写っていなかった。
そんなことには気づくこともなく、二人は話し続けていた。
「ありがとう、お前がいてくれるから俺は何とか生きて行けるよ」
「おおげさに言わないでよ」
「ごめんな、母さんを取ってしまって…… 血のつながっていない俺が母さんを独占してしまって……」
「なに言ってるの今頃、そりゃー小学校の頃は腹が立って、ぐれてやろうかって思ったこともあったわよ。でもね、六年生になった時だったかな、クラスに母子家庭の女子がいて、その母親は男ができる度に彼女を一人にして出て行ったのよ」
「そう言えば、何か事件があったような気がするなー、どんなことだったかな?」
「その子が帰る途中でしゃがみ込んでいて、ちょうど用事があってママが迎えに来ていた時だったら、ママが慌てて車に乗せて病院へ連れて行ったの、空腹のあまり腹痛を起こしていて、親に連絡したけど電話には出ない、とりあえず家に連れて帰って、胃に優しいものをママが何か準備していたのを覚えているわ。そしたら夕方担任の先生が来て、やっと事情が解ったらママの目が怒りに満ちていたわ」
「そんなことがあったなー」
「そしたら翌日迎えに来たその子の母親捕まえて、まあすごかった。『母親が子供から目を離してどうするのっ、犬や猫だって子供の面倒は見るのよっ』って言ったら、その母親も『裕福だからそんなきれいごとが言えるんだ』とかなんとか言って反論したの、そしたらママが目を吊り上げて『子供への愛情にお金なんて関係ない、私は一人になっても私の二人の子は命を懸けて守っていく! それだけの覚悟を持って毎日生きているのよ!』ってすごい迫力だった」
「ああ、そんな話は後から聞いたような気がするなー」
「私は茫然とそのやり取りを見ていただけだったの、ただ、夜、ママは私のことも見ているんだ! そう言えば何かあるたびにいつもやって来て何か言って出て行った。それで悩んでいることが馬鹿らしくなって、いつも不安がなくなって…… そう思ったの。兄さんの事情は知っていたから、兄さんへの接し方と私への接し方が違うだけなんだって思ったらなんでもなくなったわ」
「あの人のすごさだよなー、俺はどうやって恩返しすればいいんだろう……」思い込むような独り言だったのだが
「笑顔で生きて行けばいいんじゃないの……」何気ないエリカの言葉に
「えっ、それでいいのか?」彼は驚いた。
「以前にママが言っていたの。兄さんの居場所がわかって、兄さんの顔が見たくなって一度お店に行ったらしいの……」
「そうなのか?」
「もちろん窓越しに見ただけらしいけど、その時の兄さんはとても楽しそうにお客さんと話しながら焼きそばか何か焼いていたらしい。あんな笑顔見たことないって、小さい頃から笑わない子だったから、ちょっとでも笑ってくれたらうれしくてうれしくて仕方なかったってよ、その兄さんがあんな見たこともないような笑顔で生きて行けるんだったらあそこで生きて行ってもいいって……」
「……」ほとんど感情を表すことはしない和也であったが、さすがにこの話を聞くと目頭が熱くなるのをどうすることもできなかった。
「だけど、あの人のことだから、場面が変わると何言いだすかわかんないよ」
「そうだな、それでもいいよ……」
「それから、私も結婚しようと思っているの」
「えー、そんな人いたのか? お前は男に興味ないのかって思ってたよ」
「何よそれ! 男女に関係なくすごいと思う人には魅かれるけど、結婚するのは男性よ!同性愛者じゃないんだから……」
「ははははっ」
「笑い事じゃないわよ、これからが大変なのよ」
エリカの結婚
四月も後半に入ると、綾に会いに行くチャンスが無くなり、気落ちしている玲子に
「私、結婚するから……」エリカが突然切り出したが
「そうなの……」母親の気の抜けたような返事に
「何なのよ、たった一人の娘が結婚したいって言っているのよ、何か聞きたいでしょ、どんな人なのとか、何している人なのとか……」エリカが突っかかっていくが
「あなたが結婚する人なんて、だいたいわかるわよ」玲子は軽くあしらった。
「えっ、何それ、どうしてわかるのよ」
「だいたい、口数が少なくて、少しぽっーとしているような感じで、何か一つのことに夢中になっている人、世間知らずで、自分が没頭していることしか興味がない。だけどその部分では相当な人物、服装はだらしなくて、黒縁の眼鏡をかけていて、髪はぼさぼさ、周りの人からはどうしてあんな人がいいのって言われるような人。だけど母性本能をくすぐられてどうにもならない。あなたの言うことには絶対に逆らわない…… まあ、こんなところね!」
玲子があっさり言うと、
「ママ、調べたのね!」
「何言っているの、調べなくてもわかるって……」
「本当に調べたわけじゃないの?」
「そこまで言うってことは大正解みたいね」
「信じられない! どうしてなの……」エリカはこの母親が少し怖くなった。
「だって、ママの血を継いで、ママの背中を見て育ったんでしょ、あなたの行き先なんてすぐわかるわよ!」
「参ったなー」
「ママは何も言うことはないけど、ただこの家には住んでね」
「ちょっと待ってよ……」
「あなたねー、和也が出て行って、あなたまでいなくなったら、あの親父とふたりきりになるのよ、残った者として責任があるでしょ!」
「もう、無茶苦茶じゃないの……」
「大丈夫、あなたの夫になる人は了解するわ……」彼女は微笑みながら言った。
「何でもわかるのねっ」
「でも、父さんには了解取りなさいよ」
その翌日、一人で夕食をとっていた父親は、前に座ったたエリカを見て、
「どうしたんだ? 結婚でもするのか?」尋ねたが
「ママから何か聞いたの?」不思議そうにエリカが尋ね返した。
「いいや、何も聞いていないけど、お前が改まって私の前に座るなんて、何かあるだろう……」
「そうなの、結婚しようって思っているの…… 」
「でも、もう少し遊んでからでもいいんじゃないのか?」
「遊ぶって言っても何して遊ぶのよ、たいした男もいないし!」
「母さんが了解したのならいいけどね、私はそろそろ会長職に退こうって思っている。だからもし結婚するのならその人に社長になってもらってくれ、二人で暮らしたいのならそれでもいいが、母さんの機嫌が悪くなったら来てくれよ!」
実は、社長の斎藤真一は、これまで何度か社長の交代を画策したことがあるのだが、ことごとく専務と常務に反対され、いやいや社長職に就いていた。
彼は、権力とか名誉にはあまり興味のない人間で、財力に恵まれていることもあって、できることであれば、もっと平和に、静かに生きて生きたいと思っていた。彼の表向きの持論は、
『いつまでも世襲制はよくない、専務か常務が代表になるべきである。創始者の血筋と代表は関係ない。時代の流れを見るべきだ』と言うことだったが、専務、常務は真一よりも高齢で、役員の中にも代表を務める人材はいないと言われ、今日に至っていた。
加えて、大株主の銀行からも、仮に世襲制にこだわらなくても、次期社長は齋藤信也しかいない、学歴、人格ともに全役員が納得している。現社長はそこまでは頑張っていただきたいといわれていたため、信也が帰ってくるまでは仕方ないとあきらめていたのだが、恵梨香の結婚話に彼は目を輝かせたのである。
そんな背景の中での、社長交代の話だったのだが……
父親の話しにエリカは耳を疑った。
「ちょっと待ってよ、薬の研究をしている人なのよ、社長なんてできる訳ないでしょ!」
「大丈夫だよ、座っていればいいだけだ……」
「バカなこと言わないで、絶対にいやだからね!」
彼女は吐き捨てるように言うと、部屋を出て母親の所へ向かった。
エリカの話を聞いた母親は
「やっぱりね、何かそんな予感がしていたのよ」何かを思いだすように呟いた。
「えっー、わかっていたの、信じられない、もういい、私も出て行く!」
「まあ待ちなさい、短期は損気よ」
「私が言いたいわよ!」
「とりあえず、彼にはどんなことを言われても『はい』って言わないように言い含めて、その上で父さんに紹介したら……」
「でも、父さんが言うわよ、『社長になれ』って! 」
「そこであなたが反論すればいいじゃない、わかってくれないのなら、今後、父さんと母さんのことには絶対に関わらないからって言えばいいじゃない、そこまで言えば父さんだって折れるわよ」
「ほんとに?」
「うん、もし折れなかったら出て行っても仕方ないわね」
「了解!」
その二日後、藤原隆が、エリカの両親に挨拶にやって来た。
「エリカから聞いているかもしれないが、この子の兄が訳あって家を出ている。将来的にはその長男が会社の後を継ぐことになると思うのだが、私も体調がすぐれず、息子が帰ってくるまでは待てない。そこで申し訳ないのだが、エリカの結婚相手には、息子が帰ってくるまで社長の座についてもらわなければならない。このことを了解してくれるのであれば、二人の結婚には何の問題もない、どうだろう?」
「父さん、それは駄目だって言ったでしょっ!」
「あの、すいません、私のような者に社長が務まるとは思えないのですが……」
隆が口を挟んだ。
黙っているようにと念を押していたにも拘わらず、口を開いた彼を心配そうにエリカは見つめていた。
「いや、全く問題はない。企業自体はしっかりしているので、座るべきものが要(かなめ)の位置に座れば何も問題は起きない。君は秘書の言うとおりにしていれば会社はちゃんと回っていく」
「そういうものなんですか…… では、私のようなものが社長になっても社内で異をとなえるような人はいないのですか?」
「絶対にいない、息子が家を出ている以上、娘婿が第一候補であることは間違いない、ゆっくり勉強すればいい、勉強が嫌なら、毎日静かに過ごせばいい、社長なんてそんなものだよ……」
「わかりました。それをお受けすれば結婚は許していただけるのですね」
「許すとも、何も問題はない」
「隆さん、なんてことを言うの、だめよ!」
「いや大丈夫、お許しいただくため条件なら仕方ない、お受けします」
「そうか、良かった、うん、良かった」
「何が良かったのよ、私は認めないわよ、隆さん、いいのよ、許してくれなければ出て行けばいいんだから!」
「それは駄目だよ、ご両親に許していただけない結婚を君にさせる訳にはいかない、君と一緒になれるのであれば、研究は一時休止する」
「何言っているの、兄が帰ってくる保証はないのよ、そうなったらいつまでも社長よ、それでもいいの?」
「私の人生がそう流れて行くのであれば、それも仕方ない。私みたいなものが君みたいな女性と結婚できるんだ、命以外の代償なら払うよ」
「隆さん……」
「盛り上がっているところ悪いんだけど、私はこの家に住んでくれないと許可できないわよ」
「ママ、いい加減にして、そこまでしないわよ」エリカは一人でバタバタしていた。
「いや、いいです。ここに住ませていただきます。それは当然です。お兄さんが出ていかれて、エリカさんまで……という訳にはいきませんのでわかっています」
「ありがとう、エリカ、いい人に巡り会ったわねー」
「もういい加減にして、マンションだって決めているのに、信じられない!」
「だけどね、あなた、会長職に退くって言ってたけど、代表は続けるんでしょうね、隆さん一人に代表を押し付けてのんびりしようなんて考えていないわよね」
妻の突き刺すような言葉に、
( くそー、ばれたか )
そう思った夫は
「だめかな?」軽く尋ねてみたが
「当たり前でしょ、娘婿にそこまで甘えるつもりなの?」
「母さんに気付かれたら仕方ないか……」
その夜、玲子の部屋で
「もう信じられない、あれほど言っていたのに……」
「こんな予想もしていたけど、きれいにストライクね!」
「どういうこと? まさか仕組んだんじゃないでしょうねっ」
「そんなことはしないわよ、だけど、隆さんがあなたの思っている以上の人だったら、こんなこともあるかなって予想はしていたのよ」
「どういうことなの? 私は隆さんをわかっていないってこと?」
「そりゃそうでしょ、こんな結末になったんだから!」
「……」エリカには返す言葉がなかった。
「でも、表向きはママが言った通りの人だったわね……」玲子が微笑みながら言うと
「悪かったわね、ぼっーとした人で!」エリカは少しすねていた。
「だけどあなた、あの人のこと全然わかっていない! あの人は刑事コロンボみたいな人だって思っておきなさい」
「えっ、何それ?」
「一度DVDでも見て見なさい」
「えっ、映画なの?」
「いずれにしてもあなたは幸せになれるってこと!」
「そうなの……」
六月で二六歳になるエリカは誕生日までには籍を入れたいと考えていたが、隆の父は平凡なサラリーマンだった人で彼はその家庭の三男坊であった。
今、両親は年金暮らしで、静かに余生をおくっていたため、派手な結婚式は望んでいなかったことに加え、エリカの両親も長男である和也が家を出ている状況ではあまり目立ったことはしたくないという思いもあって、彼らは二人だけでハワイへ出向き、そこで静かに挙式を上げ夫婦となった。
ハワイへ向かう前に電話を受けた和也は
『ほんとにそれでいいのか? 私のせいで申し訳ない……』と詫びたが
『大丈夫よ、私も派手なのは嫌だし、あちらのご両親だってもとサラリーマンだったから……』
『あちらのご両親は、結婚については快く納得してくれたのか?』
『何か参っていたけどね、薬の研究をしているって思っていたのに、突然斎藤グループの社長だなんて、びっくりしてたわよ』
『そうだろうな、ほんとに申し訳ない』
『お父さんなんか、なんじゃそりゃって、めまいがして横になったのよ、お母さんもすわったまま動かなくなってしまって……』
『俺がこんなこと、言えた義理じゃないけど、こちらのわがままを聞いてもらっているんだから、ちゃんと尽くさないとだめだよ!』
『わかってるって! 週に一度は必ず一人で顔出して、一緒にお昼を食べに行ってるのよ』
『そうか、そりゃご両親も喜んでいるだろう』
『それがそうでもないのよ、私といると肩が凝るみたい……』
『はははっ、お前が猫被っているからだよ…… その内にエリカの良さを分かってくれるよ』
第三章 和也の決意
揺れ動く思い
七月の初め、和也もまもなく三二歳になろうとしていた。
理穂と二人、誕生日の話で盛り上がっていた時、突然のエリカからの連絡に彼は驚いた。
『兄さん、ママが寝込んでしまって! もう私じゃどうにもならない…… 』
『えっ、どこか悪いのか?』
『わからない、病気じゃないと思うけど…… 綾ちゃんに会いに行ったらって言っても、笑うだけで、なんかもう気力が無いというか、食事もあまり取らないし、部屋からもあまり出てこないでベッドに伏せたまま…… 一度帰ってくれない?』
心配そうに話すエリカに
『わかった、早めに顔出すよ……』
( 母さんの体調が悪いんじゃ仕方ない! いよいよか…… )
和也はいつか理穂に家族の話をしなければならないと思ってはいたが、積極的に動こうとは考えていなかった。流れがそうなれば仕方ないが、可能な限りこの生活を続けて行きたいと願っていた。
しかし既に流れが変わり始めていることを彼は痛感していた。
『家族も連れてきてよ』
『そうだなぁ、いつまでも黙っているわけにはいかないよな…… 少し考えさせてくれ!』
( 家族を連れて行けば、何かが変わってしまう…… 一人で行くか? 理穂に内緒にして一人で行けばどうなるんだ…… 何もなかったような顔して、このままこの生活が続くんじゃないのか…… )
何かが動き出していて答えはわかっているはずなのに、今のこの生活に未練のある和也は、何とか理屈をつけて自分を納得させる道がないか、懸命にもがいていた。
その翌日のことであった。
十時前に斎藤グループの栗山総務課長から電話が入り
「トラブルが発生して、総務課の社員は全員お昼を食べに出る時間がないの、一一時半でいいから、一0人分適当に焼いて持って来てもらえないかしら……」
基本的に配達はしないのだが、和也はこの栗山の思いに応えた。
栗山との出会い
和也が初めて栗山に出会ったのは、彼がこの店にやって来た四年前の年のゴールデンウイークであった。
ゴールデンウイークの三日目、少なかったお昼の客がはけて間もなく、スーツ姿の女性が一人で入って来た。
四十歳は過ぎているだろうこの女性は、テレビなどで企画書を持ってさっそうと歩いている『できる女』というイメージが強くて、相当に細い身体をスーツで隠しているのだろうが、今にも折れそうな指と細い顎がそれを物語っている。
やや吊り上がった瞳がどことなく冷たさと言うか厳しさをイメージさせ、近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
彼女は座るなり、メニューに目をやると
「タコで焼きそばができる? 肉はいらない!」
そう言って和也に尋ねた。
「お客さん、タコで焼きそばはちょっと……」
「えっ、できないの?」
「できないことはないですが、おいしくないです」
「そんなの私の勝手でしょ!」かなり勝気な人のようである。
「そうなんですが、肉がおいやでしたら、イカの方が……」
「いいじゃないの、客が言っているんだから、まずくても私の責任よ、二玉でお願い」
彼女はそう言い切るとスマホに目を向けたのだが
「いやー、生意気言って申し訳ないのですが、上手くなかったら、この店が上手くなかったという印象が舌に残りますので、できればご勘弁いただきたいのですが……」
かなり困ったように和也が言うと
「なるほどね、でもあなた、タコ焼きそばを食べたことあるの?」
再びスマホから目を上げた彼女が彼を見つめながら尋ねてきたが、その目はきりっと彼を見つめ瞬きもしないで一瞬たりともそらすことなく彼に突き刺さってくるようであった。
「いいえ、ありません。でもそばと合わないといいますか、直接かけられたソースと合わないのはわかります。タコを炒めて、ソースをかけて食べることを想像してみて下さい」
彼は彼女の厳しい目を直視することができずに、俯きがちに反論した。
「わかったわ、でもそれだったらタコそばとイカそば一玉ずつで作ってちょうだい」
彼女はこれ以上譲るつもりはなかった。
「わかりました、そこまでおっしゃるのなら作りますが、タコ焼きそばを先に食べて下さいますか?」やっと着地点が見つかったことに彼も安堵した。
「いいわよ、そうするわ」
彼女の前でタコ焼きそばを焼いた彼は、彼女がそれを食べ始めると、隣の鉄板でイカ焼きそばを作り始めた。
その様子を見たその女性は、
「ずるはしないでよ!」
「もちろんです、そんなことはしませんよ」
彼は楽しそうにイカ焼きそばを作り続けた。
一方、彼女はタコ焼きそばを口にしながら、
(ほんとだ、お好み焼の中のタコとはちょっと違う…… 固くてソースの味しかしない、タコだと思えばタコだけど…… 別のもの入れられてもわからないかも……)そう思っていた。
「どうですか?」
「私の負けみたいね」
「お客さん、勝ち負けじゃないですよ、私はおいしいものを食べて欲しいだけです」
タコ焼きそばを食べ終えた彼女の前に、イカ焼きそばが運ばれてきた。
一口食べた彼女は
「おいしい、いかの出汁がでているわね」と和也に目を向けた。
「良かった!」ほっとした彼は胸をなでおろした。
負けたことを気にしているような彼女を気遣って彼は話を変えた。
「ゴールデンウイークなのにお仕事ですか?」
「ええ、ちょっと気になることがあって、確認だけしていたの……」
「サラリーマンの方は大変ですよねー」
「あなただって、私みたいな客が来たら大変でしょ」
「そんなことはないです。むしろ楽しいです。特にお客さんは簡単に引き下がらないので楽しかったです」
「おもしろい人ね……」
( お好み焼屋の亭主には見えない、何か理由があるのだろうか…… )
そんなことを思った時、
「お客さんは肉が嫌いですか?」
「えっ、どうしてわかったの?」
「私もだめなんです」
「そうなの?」
「肉の嫌いな人って、けっこう味にこだわるんですよ、どうせ食べる食事なら、少しでもおいしく食べたい…… そう思っていませんか?」
「思っているわよ、何かうれしくなってきたわ」
「なかなか肉の嫌いな人には巡り会えませんからね」
「そうねー、私の周りにはいないわ」
「周囲の人が気を使ってくれることに、けっこう疲れるでしょ」
「そうなのよ、みんな宴会の料理に悩んでいるわ」
「そうですか…… 斎藤グループの方ですよね」
「よくわかったわねー」
「結構来てくださっていますから、そのバッジで……」
「なるほどね」
「所属を充てて見ましょうか?」
「えっ、あててみてよ、難しいわよ…… もし当てたらまた来るわよ!」
切れ者の総務課長が女性であることを知っていた彼は、
(恐らくこの人だな)そう思って
「総務課長ですか?」
「えっ、どうして…… 知っていたの?」
「いや、知らないですよ、雰囲気ですよ」
「何よそれ、あなた霊感があるの?」
「おもしろいこと言わないで下さいよ」
「でも驚いた!」
「ぜひまたお越しくださいよ……」
「来ますよ、楽しいから外れても来るつもりだったわよ」
「ごちそう様、おいくらかしら?」
「いえ、今日は肉の嫌いな二人が出会った記念日ということで……」
「あなた上手ねー、こうやって常連客を増やしていくのね……」
「正解です……」
これが和也と斎藤グループ、総務部総務課長 栗山奈美との出会いであった。
この後、彼女は店の常連となり、総務課の部下たちを連れて再々訪れるもので、総務課の部下達もいつの間にか常連になっていた。
人事課長の横暴
栗山との長い付き合いを思いだしながら……
十一時半に十人分を配達した彼は、総務課のある七階のエレベーターを降りたところで、四0過ぎの男性から声をかけられた。
「君はどこに行くのかね?」
「はい、総務課長の栗山さんから頼まれてお昼を配達にきました」
「いい匂いがしているけど、お好み焼かね?」
「はい」
「配達の後、総務課の向かいに人事課があるので寄ってくれないか? 私は課長の小橋だ」
「はい、わかりました」
配達を終えた彼が人事課を覗くと、一番奥から
「おい、お好み焼屋! ここだ」
「すいません、何か?」
「何かじゃないよ、会社内へ配達するんだったら内の許可を取ってもらわないと困るよ、内は社員の福利厚生を所管しているんだよ」
「あっ、そうでしたか…… 誠に申し訳ありませんでした」
流れを見たかった彼は今日の配達が特別なものだということを説明はしなかった。
「この紙に必要事項を書いて、せめて一0人分ぐらいは『試食です』って持って来て、
『食べていただけませんか』って言うのが礼儀だろ、いくらお好み焼屋でも、そのくらいは知っておけよ」この横柄な発言に
「すいません、内は小さな店でちょっとそこまでは……」和也は懸命に平静を装って答えた。
「そうなの、じゃあ仕方ないな、もう配達はできないよ…… いいんだな」機嫌を損ねたのか、ぶっきらぼうに話す人事課長に
「仕方ないです。失礼します」和也が頭を下げて帰ろうとした時、
「それから、念のために言っておくけど、このトラブルは今日中には社員の全員が知ることになるから、明日から人事課長に逆らった君の店に行く者はいないと思うよ」
「そうですか…… 」驚いた和也は、
( こんな奴が人事課長しているのか、この会社はどうなっているんだ! )
そう思ったが静かにその場を立ち去った。
しかしエレベーターの前で
「すいません……」後ろから追いかけてきた男性に声をかけられ、和也が振り向くと
「私は人事課課長補佐の岡野と申します。ほんとにお恥ずかしい話で申し訳ありません」
彼は俯きがちに詫びてきた。
「いえ……」
「申し訳ないですが、私がお金を払うので、明日、一0人分持って来て、『試食だ』と言ってもらえないですかね?」
「えっ」驚いた和也が目を見開くと
「このままだと、ほんとに君の店に行く者がいなくなってしまう……」
「それはそれで仕方ないです」
「でも……」
「お気遣いいただいてありがとうございます。あなたのようなりっぱな方もいらっしゃるんですね、安心しました」
「とんでもない、お恥ずかしい限りです。本当なら、課長補佐である私が止めるべきなのですが、私にも家族がいます。生活を守らなければならないので何も言えません。せめて罪滅ぼしに、こうしてできることはカバーしようと思っているのですが…… ほんとにお恥ずかしいところをお見せしました」
その翌日は、支払いにやって来た栗山課長を除いては、本当に斎藤グループの社員は誰一人として顔を見せなかった。
店がすいていれば、他の客が入るので、売り上げに大きく影響することはなかったが、それでも和也はさすがにこれは放置できないと考えていた。
その翌日、昼過ぎにこの話を知った栗山は、人事課へ出向くと社員の前で人事課長にかみついた。
「彼の店には何の関係もないでしょ、皆が店に行けないように意識的な発言をして、あなたは恥ずかしくないのっ!」
「私は人事課長ですよ、職員の福利厚生を所管しているんですよ、おかしな店だと思えば配達の許可は出せないし、社員が店に行かなくなっても仕方ないと思いますよ」
「どこがおかしな店なのよ! それに社内で販売したわけじゃないでしょ、配達に許可がいるなんて話、聞いたこともないわよ、何なのよ、どこにそんなルールがあるのよ!」
「決まりがない部分は私の判断がルールですよ……」
「ほんとにあなたは人間の屑ね、あなたがいなくなれば、その方がよほど社員の福利厚生に繋がるわよ、いつまでもこんなでたらめが通るなんて思わないでよっ!」
「屑はあなたですよ、通ればでたらめではないですよ、屑には海外を経験して欲しいので、来月から東南アジアへ行っていただくことになっていますのでよろしく」
「地獄に落ちなさいっ!」
人事課の社員はみんな心で栗山にエールを送っていた。それでも東南アジアへの転勤を聞いて、最後の砦までいなくなるのか…… そう思って落胆する者ばかりだった。
バカ息子
そして翌日の夜、最後の客が出て行った直後であった。
「遅くにごめんなさい、いいかしら?」
総務課長の栗山がやって来た。いつになく物悲しく重苦しい雰囲気を醸し出し、相当に疲れているようである。
「どうぞ、直ぐに火をつけますから……」
和也はそう答えると、彼女の様子を見ながら鉄板に火を入れたが、いつもとは違う空気に少し不安を覚えていた。
「ほんとにごめんなさいね……」傍に来た彼女は深々と頭を下げた。
「えっ、どうしたんですか?」
和也が不思議そうに尋ね返すと
「人事課長が訳の分からないこと、言ったんでしょ…… 私のせいでほんとにごめんなさい」
自責の念にかられている彼女は小さくため息をつくと、顔を上げて和也に目を向けた。
「いいえ、そんな…… 栗山さんに謝っていただくようなことじゃないですよ」
確かにあの日以来、斎藤グループの社員は誰一人として店には来ていないが、彼にはその事実よりも、たかが人事課長になぜそんな力があるのか、そのことの方がはるかに不思議でならなかった。
会社の中で何かが狂い始めていることを感じて彼は胸が苦しくなっていた。
「でもね、同じ企業で働く者としてね、ほんとに恥ずかしい…… 会社の恥をさらしているようで情けなくて……」
そこまで言うと彼女は目を伏せて、やるせない思いに深く沈み込んでいくようであった。
「そんな……」
( この人は会社を愛しているんだなー ) そんなことを感じながら和也はそばを焼き始めた。
「えっ、どうしたの? タコ玉を食べようかって思ったんだけど……」
不思議そうに彼女が言うと
「いいじゃないですか、焼きそばで……」彼はそう言って奥からビールを出してきた。
「えー、ビールなんておいてたの?」
「売りものじゃないですよ、客商売していると嫌な客もいるんですよ」
「そりゃそうでしょうね」
「そんな日は、夫婦で飲んで、こんかぎり悪口言って、最後は笑いながら寝るんですよ」
「そうなの? そんな風にしてはけ口にしているんだ、すごいね」
「すごくはないですけど、腹にため込んで嫌な思いを継続してもねー……」
「そうねー」感心したように彼女が頷く。
「知らないうちにこんなことになってましたよ……」
「あなたはすごいと思うわ、奥さんと店を切り盛りして、かわいいお嬢ちゃんもいて、まろやかな客対応して、しっかりとこのお城を守っている…… 客商売の世界では一級品ね」
彼女は自らの境遇を嘆くかのように彼を褒めたたえた。
「できましたよ、つまみには焼きそばの方がいいでしょ、さあ、召し上がって下さい」
「ありがとう」
「乾杯しますか?」
向かいに座った和也も缶ビールを開け彼女の目の前につき出した。
「えっ、付き合ってくれるの?」
「もちろんですよ、栗山さんが暗いのは嫌ですよ」彼が笑いながら言うと
「上手ね……」にこっと笑った彼女の笑顔が寂しそうで彼は辛かった。
「いや、本心ですよ!」
「ありがとう、乾杯!」
「美味い」一口飲んだ和也が明るく呟くと
「来月には東南アジアに行くことになったの……」
栗山も苦笑いしながら軽く流すように言った。
「えっ、人事異動ですか?」
「そう、馬鹿人事課長にやられたの……」
「えっ」和也が驚くと
「あっ、ごめんなさい、つい出てしまった、ほんとにだめねー」
「とんでもないです。栗山さんがそんなこと言うなんて、よほどなんでしょうね。何となくわかりますけどね……」
「そうだったわね、あなたも被害者だものね」
「……」和也は彼女の目を見つめながら軽く頷くとしばらく沈黙した後
「一つだけお伺いしてもいいですか?」思い切って口にした。
「何かしら……」
「あの人事課長はどうしてそんなに権力をもっているんですか?」
彼は静かに言葉を確認するように尋ねた。
「えっ」思いもよらない質問に困惑した栗山はしばらく考えたが
「あなたには知る権利があるわよね……」
納得したように、そして自らに言い聞かせるように彼を見つめた。
「できることならお伺いしたいです」
会社の中でこんなことがまかり通っていることを思うと、彼は自分だけがここで幸せに暮らしていることに罪の意識を感じずにはいられなかった。
「彼は会長秘書の腰ぎんちゃくなのよ!」吐き捨てるように彼女が言うと
「えっ、でも会長秘書ってそんなにすごいんですか?」
彼の驚きようは尋常ではなかった。
「食いついてくるわねー」彼女は少し楽しそうだった。
「すいません、でもあまりの仕打ちだったもので……」
何とか聞き出したい和也は懸命に被害者を装い訴えかけた。
「そうね、会社の恥になるけど仕方ないわね」
「お願いします。絶対に他言はしませんので……」
しばらく沈黙があった。
栗山はどう切り出そうか、頭の中で整理しているようだった。
「会長がね…… 息子さんが家を出て以来、腑抜(ふぬ)けになってしまったのよ、それを良いことに秘書が全て仕切って、好き放題しているのよ……」
力なく彼女が切り出すと
「えー、でも社長だっているでしょ」
「社長も気の毒なのよね、会長の娘婿なんだけど、研究者なのについ最近社長にされて…… 頑張っているけどどうにもならないわね、この前も国会議員の町野が来て、偉そうに言われたらしい、会長秘書は町野ともつながっているらしくてもう大変よ」彼女は諦めているようだった。
「だけど、何とかしようとする人はいないんですか?」
しばらく考えた和也がすがるような思いで尋ねると
「ほんとにね、私もそう思うわよ…… 専務や常務は人格者よ、でも今回のことは見守っている…… さすがにとんでもないことになりそうな時は手を回しているけど、音無しの構えで待っているのよ」
「えっ、何をですか、会長がやる気になるのを待っているんですか?」
「いいえ、違うわ、彼らが待っているのは息子よ……」
彼女が吐き捨てるように言うと和也はどきっとしたが、思いこんだように床の一点を見つめながら話している栗山はその表情に気が付かなかった。
幼い頃から和也を見てきた専務と常務は、彼が父親との意見の食い違いから家を出たことを知っていたし、本社近くのお好み焼屋の娘と結婚し、そこで暮らしていることも知っていた。
だが何よりも彼らが理解していたのは和也の人間性であった。
( 彼は必ず帰ってくる、逃げ出すような人間じゃない、それまでは下手な露払いなどせず、あるがままの所へ帰ってもらい、そこから手腕を発揮してもらえばいい )
彼らはそう考えていたので、会長秘書の日常の悪行を一時的に抑え込むようなことはしなかった。
「息子さんてそんなに優秀なんですか?」
「それは知らない、だけど、あの二人は馬鹿よ! 逃げ出した息子を待っているなんて、私には考えられない…… 帰ってくるかどうかわからないバカ息子を待っているなんて信じられないわよ、だいたい息子は無責任よ、逃げたのよ!」
息子の話になると、彼女の怒りがどんどん増してくる、それに伴って和也も申し訳なさから息苦しくなっていった。
「でも喧嘩でもして、家を出たんじゃないんですか?」
自分の行為を正当化したくて彼は尋ねてみたが
「何があろうと無責任よ! 斎藤の長男に生まれたんだから責任があるでしょ、扇の要(かなめ)が逃げ出したらレースにならないわよ」
少し酔いが回っているのか、彼女の本音が次から次へと飛び出してきた。
(俺はこんな風に思われているのか…… )
そう思った彼は矛先を変えようと思い
「なんか、難しいですね」と話を遠ざけようとしたが
「難しくないわよ、座るべきものが要の位置に座らないと、周りの者達の中に野心が生まれてくるのよ。扇の美しい図柄は要があって初めてきれいに開くのよ、要がしっかりしていないと扇はばらばらになって美しい図柄なんて意味がない。企業なんてそんなものなのよ。みんな扇の図柄の美しさに目を奪われても、その要を見る人なんていないでしょ。だけどその美しい図柄は要があってこそ……なのよ」
「なるほど、いいお話しですね。息子が馬鹿でも優秀でも関係ない、息子が要に座れば全て上手くいくということですか……」
「そのとおりよ、まあ時にはばかやる奴もいるかもしれないけど、あれだけの大企業になると要がしっかりしていればそんなことはなんでもない…… 企業がぐらつくようなことには絶対にならない。でも正直、今のこの状況は大きな亀裂の第一歩のような気がしてならない…… 」
彼女は既に三本目のビールに口を付けていた。
「あなたはサラリーマンにならなくて良かったわね。私なんか疲れてしまってもうこの会社にも愛想が尽きたわ、誰もあの秘書と、馬鹿人事課長を止めることができない…… もういつでも辞めてやるわよ!」
「栗山さん……」
「あっ、ごめんなさい、愚痴になってしまった…… 私ももうだめねー、部外者にこんなこと話してしまって、管理者失格ね、アジアがにあっているのかもね」
「でも、栗山さんは絶対に投げ出さないでしょ、最後まで筋を通して戦うでしょ」
「そうしたいわよ、でもね、理屈だけこねたって力がないのよ、後ろ盾があるわけじゃなし、株持っているわけでもないし……」
「そんな悲しいこと言わないで下さいよ、会社のこと愛しているでしょ、伝わってきますよ」
「そりゃ、確かに四年前までは愛していたし、この企業の一員であることに誇りを持っていた。仕事が楽しくて、結婚なんて考えたこともなかった。女性でも四0歳を前に課長にしてもらって、毎日がすごく充実していた。でも当時社長だった会長がおかしくなって、とんでもないことがまかり通るようになって、あがいてみたけどどうにもならない、心ある者が次々排除されて、それでも誰も動かない、馬鹿ばかりよ、私に社長させたらいい会社にしてあげるのに……」
「おっ、言いましたね」
「言うわよ、もうやけくそよ…… でもね、常務に呼ばれて言われたのよ、『辞表出してくれ』って、『危ない子会社があるからそこを立て直してくれ、息子が帰ってきたらすぐに呼び戻すから』って、だけど断ったわ」
「えっ、どうしてですか?」
「最後まで見届けてやろうって思っているの、専務と常務が言うように、彼らが待っているバカ息子がほんとに帰ってくるのかどうか、もし帰って来たとしたら、何かやるのかどうか、それともあのバカ秘書に丸められてバカ丸出しで生きていくのかどうか、絶対に最後まで見届けてやろうって思っているの……」
「誰が一番悪いんですか?」
「そりゃーバカ息子よ!」
「やっぱり、そうですよね」和也はその言葉に苦笑いした。
「この店には何か潜んでいるんじゃないの? 私はこんなこと外で話す人間じゃないのよ、何かべらべら話をさせられたような気がする……」
「栗山さん、心霊スポットじゃないんですから……」
「そりゃそうね、でもすっきりした。帰るわよ、いくら?」
「今日はいいお話しを聞くことができましたので結構です」
「そうなの? ごちそう様……」
彼女が帰ると
「栗山さん、相当参っている感じね……」厨房から出てきた理穂が心配そうに呟いた。
「そうだなー、サラリーマンは大変だよね」
「和也さん、社長してあげればいいのに……」
「おもしろいねー、でも俺が社長になったら、社長夫人の君は、この店をどうするの?」
「そりゃー一人で頑張るわよ」
「すごいね、その内に『味を求める客のためにお好みを焼き続ける社長夫人』とかなんとか、週刊誌に出たりして……」
「ばからしい、もうお風呂入るわよ」
「おいおい、理穂が言い出したんだろう……」
「だめだめ」
そう言いながら奥へ歩いていくその背中が
「あなたの冗談に付き合ってはあげるけど、私だって忙しいんだからいつまでもという訳には行かないわよ」と語っているようで、彼はもう少し盛り上がってみたかったが静かに腰を上げた。
( 結婚を申し込んだあの日、泣きながら抱き着いてきたあの女性は、子どもを産んで母になって、こんなにたくましくなって、それでも自分に対する細やかな心遣いは絶対におろそかにしない…… よくも理穂に巡り会えたものだ…… 親父が勘当してくれたおかげかな……)
そんなことを思いながらも、『バカ息子』といい切った栗山の言葉は、彼の心に突き刺さっていた。
( もう帰るしかないな…… )
栗山の話にそう思った彼は、愚かな理論武装を考えるのは止めて、理穂に話し始めた。
「理穂、明日の休みなんだけど一緒に行ってほしいところがあるんだ……」
「どこなの?」
「……」
「えっ、どうしたの?」
「ごめん……」
「どうしたの? 何か困っているの? 何を迷っているの?」
「ごめん、何から話せばいいのか、まだ頭の整理ができてないんだけど…… ほんとは家族がいるんだ……」
「えっ、家族はいないって…… 天涯孤独なんだって、言ってたのに…… 」
「ごめん、両親と妹が居る……」
「えっー、挨拶もしていないのに! 結婚して子供までいるのに…… 」
「ごめん、親父から勘当されているんだ…… ただ、母さんの調子がよくないみたいで…… 」
「えっ、それは大変じゃないっ、病気なの?」
「わからない……」
「じゃあ早く行かないと!」
「うん、明日一緒に行ってくれないか?」
「もちろん行くわよ、綾だって早く会わせないと……」
第四章 和也の帰還
会長秘書の思惑
翌日午前十時、和也は理穂と綾を伴ってタクシーで実家に向かった。
車から降りた彼に向かって
「ここなの?」見たことも無いような大きな屋敷の門前に立って、理穂が驚いて尋ねると
「そう、俺の実家なんだ、ごめん……」
「ごめんって…… 何なのこの家…… 」立ち尽くしたまま呆然としている理穂に
「入ろうか」彼が彼女の背に手をあて軽く促して門の中に入ると、直ちにガードマンがやってきた。
「どちら様でしょうか?」
「この家の長男です」
「失礼しました、どうぞお入りください」
ガードマンが、頭を下げて道を開けたとき
「ちょっとお待ちください、和也さんですよね」
「そうですが、あなたは?」
「会長秘書をいたしております町田と申します。申し訳ないのですがあなたをこの家に入れるわけにはいきません。会長から厳しく仰せつかっていますので!」
冷たく機械的に話す彼の表情は少し青ざめているような印象を受けた。
「そうですか…… でも今日は母の見舞いに来ただけなんですけど……」
自分の家に入るのを他人に阻止されるのも変な話で、和也は少し腹が立っていたが
( この人が栗山さんの言っていた会長の秘書か! 好き放題やっている奴か! )そう思って冷静を装った。
「それでもお通しするわけにはいきません」秘書は少し語気を強めた。
「それは困りましたね…… 自分の家に入るのを他人のあなたに阻止されるのも変な話ですよね」
「どうかお引き取りください」彼は引く気は無いようだった。
「せっかくここまで来て、他人のあなたに阻止されて引き下がるわけにはいかないですよ」
「お帰りいただいて!」
彼はガードマンに目配せして和也を門の外に連れだすように命令した。
「あなたたちは誰に雇われているんですか?」
ガードマンが彼を門の外へ促そうとしたとき、彼は静かに尋ねた。
「この家の方です」
「この秘書の方に雇われているわけじゃないんですか?」
「それは違います……」
「私はこの家の若奥さんに呼ばれてきたんですけどね」
「……」
理穂はこのやり取りを心配そうに見つめていた。
その時だった。
「兄さん何してるの?」
兄を目にした妹のエリカが慌てて出てきた。
( えっ、『兄さん』って…… )
エリカを一目見た理穂は、目を見開いて驚いた。一瞬、頭の中が真っ白になったが、
( 妹だったのか…… ) 瞬時にこれまでの流れを整理してみると
( なるほど…… 様子を見に来ていたのか…… )
そこにたどり着いてしまうと、不思議と心が穏やかになって口元が緩んでいた。
結婚して綾を授かっても、心のどこかに何かが引っかかっていたのかもしれない。
「いや、この秘書の人が『入れることはできない』って言うもので……」
「はぁー? あなた、何様なの?」驚いて目を見開いた彼女が、腕組みをして町田を睨み付けると
「会長から言われていますから……」少し困惑したように町田の答えがフェードアウトしていった。
「何ですって、会長から兄を家にいれるなって言われているの?」
「はい、それにちかいようなことを……」
「会長は兄が帰ってくるのを楽しみにしているのよ! よくもそんなでたらめが言えるわねっ!」
「それでは会長に確認させていただきます」
「何を言っているの、そんな必要はないわ!」
「そういう訳にはいきません、私は秘書ですから……」
「何が秘書よ! 秘書がこの家まで仕切らないで! この人には屋敷から出ていってもらって!」
彼女が語気を強めてガードマンの方を向くと、この町田のことが嫌で仕方なかった二人のガードマンは、「待ってました」と言わんばかりに彼の背中を押して外へ連れ出そうとしたが
「何を言うんですか、私は会長の命令でここにいるんです」懸命に食い下がる。
「あなたはバカなの! その会長が出て行けって言ってるのよ、早く出て行って!
二度とここには来させないで!」
滅多に見せないエリカの激怒に
「はっ」 二人のガードマンが再び町田を門の外へ連れ出そうとした。
「後悔しますよ、いいんですか?」町田は意味ありげに苦笑いをした。
「あなたはそんなに偉いの? できるものならさせて見なさいよっ!」
彼が門から出て行くのを確認すると、
「ごめんなさいね、妹のエリカです」彼女は兄嫁に微笑んだ。
「いえ、とんでもないです。妹さんだったんですね。最初は彼女かと思っていました」
「えっー、何度かお邪魔したのに、黙っていてごめんなさいね……」
「あっ、ネエネエ!」娘の綾がエリカに気がついて喜びの声を上げた。
「綾ちゃん、こんにちは、お姉ちゃんのことを覚えていてくれたの? とても嬉しいわ」
「ネエネエ、大好き」
見え始めた和也の全容
玄関に入って長い通路を歩き始めると、奥から母親の玲子が足早にやってきた。
「和也、やっと帰ってきたのね…… 」
彼女は目頭を熱くして彼に向って一言いうと、理穂に目を向けて静かに微笑んだ。
「黙っていてごめんなさいね」
優しく語りかける彼女を見て、理穂は、瞬時に全てが理解できた。
( なるほど…… 和也さんのお母さんだったのか、そういうことか…… でもお母さんにしては若すぎるなあー…… いくつなの? えっ、だいたい母の形見だって言ってたあの婚約指輪は何だったの? )
目を見開いて驚いている理穂に向って
「この子の母親なの、黙っていてごめんなさいね」重ねて謝る玲子に、はっと我にかえった理穂は
「あっ、あのすみませんでした。私、全然知らなくて……」
「いいのよ、知らなくて当然よ。どうせこの子のことだから『天涯孤独だ』とか、『一人ぼっちなんだ』とか、適当なこと言ってたのわかってるから、だから私だって母親だって言えなくて……」
「……」
「綾ちゃん、こんにちは」玲子はしゃがみ込むと笑顔で綾に語りかけた。
「バーバ、まんま……」綾はおやつが食べたかった。
幼い綾はいつものバーバに会えてとてもうれしそうだった。
「綾ちゃん、バーバはね、綾ちゃんのお婆ちゃんなの、綾ちゃんのパパのお母さんなの」
「バーバ おやち」
「おやつ食べようねー」
玲子は綾の手を引いて奥へ向かって進み始めたが、ふと立ち止まると振り返って
「甘いもの食べさせてもいいかしら?」理穂に向かって尋ねた。
「あっ、はい、大丈夫です。でもそんなに気を使わないでください……」
「気を使っているわけじゃないのよ、可愛い孫に美味しいものを食べさせたいだけなの、この子がおいしそうに食べて喜ぶところを見たいのよ」
そう言うと綾の手を引いて再びリビングへと向かった。
「綾ちゃんはケーキやプリンは好きかしら?」
ソファに座って綾を膝の上に乗せた玲子は幼い孫を覗き込むように尋ねた。
「バーバ、好き、チェーキ好き」
振り向いて彼女に微笑む幼い孫の笑顔に触れて、彼女はまぶたにほんのりと涙が浮かぶのをどうすることもできなかった。
朝方、エリカから和也一家がやってくることを聞いた玲子は二0種類以上のショートケーキやプリンを取り寄せて三人を待っていた。
リビングのテーブルに並べられたその種類に驚いた綾は目を輝かせながらどれにしようか悩み始めていた。
傍らでその様子を見ていた理穂は、娘をこんなにも大事に思ってくれる人がいて、その人は夫の母親だった、こんなにありがたいことはないと思っていた。
「もうここに住んでもらうわよ、もう私はこの子と離れるのは嫌ですからね」
顔を上げた玲子が語気を強くして和也に話すと
「 母さん、そういうわけにはいかないよ」
「父さんの事だったら気にしなくていいわ、文句言ったらあの人を追い出すから」
かつて聞いたことのないような母親の強い言葉に和也の心は揺れ始めていた。
「理穂と相談してから……」そう言いかけた彼を遮って
「理穂さん、いいわよね、ここに住んでくれるわよね、お店だったらここから通えばいいじゃない、綾ちゃんは私が面倒みるわ」
和也はこんな強引な母を見たことがなかった。
「はい、でも……」俯いて答える理穂を見て
「母さん、少し時間をくれないか」困った和也が頼んだが
「だめ、何年持たせたの? もう離れて暮らすのは嫌よ、今日からここに住んでちょうだい」
「母さん……」
「ねえー、綾ちゃん、綾ちゃんはここのお家に住んでもいいわよね」
「バーバ好き……」
「そうなの綾ちゃんはいい子ね、これからは毎日おばあちゃんと遊ぼうね」
「いいよ、あしょぼ」
傍でそのやり取りを聞いていたエリカは
(兄さんが幸せならあの店で生きて行ってもいいって言ってたのに…… まあいいわ、そうなれば私も出て行ける )
そう思って静観していた。
その時であった、 二階に部屋のある和也の父親を世話しているメイドが降りて来て、
「旦那様が、早くお孫さんの顔を見たいとおっしゃっていますが……」
「見せないわよ、あなたには見せませんって言っといて!」
「奥様……」
しばらくして
「会いたければ降りてきなさいって言って!」
「奥様、お願いします」
「母さん、そう言うなよ、困っているじゃないか、勘当されていても、理穂や綾を紹介しないわけにはいかないだろう」
「あなたは優しいわね、あの人のせいで私は四年以上も理穂さんたちに名乗れなかったのよ、こんな思いは二度としたくない、何か言ったら蹴飛ばしてやるっ」
「母さんどうしたの? すごく凶暴になったね」
「兄さん…… 兄さんが出て行ってからは大変だったのよ、以前にも話したけど、理穂さんにも聞いて欲しいの…… 特に兄さんの居場所が分かるまでは、パパと口も聞かなかったんだから、パパが何か言っても、『ふんっ』って言って、食事だってパパとは別にしていたんだから……」
「…… 」理穂は目を見開いて恵梨香に聞き入っていた。
「 パパは一週間もしたら勘当は取り消すって、ママに謝ったのよ、でも、ママはそれだけじゃ兄さんは帰ってこないから、頭を下げて迎えに行けって言ったのよ。でもさすがにそれはできない、って、そのうちに困ったら帰ってくるよってパパも言うし、もう私もあきれ果てて関わらないことにしたの」
「すまなかったなー」和也が詫びるが
「兄さんの居場所がわかってからは少し落ち着いたんだけどね、綾ちゃんができてからは、また大変、そわそわ、イライラ、『いつあの孫を抱けるのよっ』って、綾ちゃんと遊べている時は良かったけど、保育園に行き出したら、また大変、その内に寝込んでしまって……」
エリカは、この実情を理穂に知って欲しかった。
「私の主人だって、気の毒なのよ、研究者なのに社長にさせられて、助けてあげたいのよ……」
「申し訳ない、ただねー……」
「いいわよ、社長はなりたくなければ、誰かにしてもらえばいいわよ。だけど家には帰ってきてほしいの、お願い。そうすれば私たち二人はマンションで暮らすことができる。毎日パパやママに気を使っているうちの人が気の毒なの。理穂さんには申し訳ないけど……」
「いえ、私は……」理穂は静かに頭を振りながらエリカを見つめていた。
「和也さん、どうか二階へお願いします」
「母さん、二階へ行こうよ、奈津さんが困っているよ……」
「ほんとにわがままな男ね、綾ちゃんがケーキを食べ終わってからね」
「兄と母は血がつながっていないの……」エリカが静かに理穂に話し始めた。
「えっ、そうなんですか、あまりにお若いから不思議には思いましたけど……」
「母は、大学一年の時から兄の世話をしていたらしいの、兄の実母は産後体調がすぐれずに寝込んでいたらしくて、この母が手助けをしていたらしいの、兄が二歳の時、実の母親が亡くなって、その時、彼が心を開いていたのは実母を除くと、当時、世話をしていたこの母だけだったから、父も困り果てて、全ての面倒を見て欲しいってお願いしたらしいの。
その日から母はこの家に住んで母親代わりをしたらしい…… 」
「それからずっーとになってしまったんですか?」
「そう……」
「じゃあ、お母さんの形見としていただいた婚約指輪は、亡くなったお母様のものなんですか?」
「そう……」
傍でエリカの話を聞いていた和也も静かに時を遡っていた。
「母は大学の卒業時点で就職を考えたらしいけど、まだ三歳の兄をとても一人にできなくて、卒業後もそんな生活を続けたらしい…… 一回りも歳の違う父と結婚したのも、兄のためだと思うの……」
「お母様の人生って……」理穂はそこまでで言葉を留めた。
「母は施設で育ったの、中学生の頃から天才って言われるほど勉強ができて、高校はここのお祖父ちゃんのお世話になったみたい。あまりに勉強ができるものだからおじいちゃんが大学へ行かせたの、アパートも用意して、生活費や学費は全て面倒見てくれたの……
母は恩返しのつもりで兄の面倒をみていたのね」
「そうなんですか、お義母さんにも辛い過去があるんですね」
理穂は少し涙ぐんでいた。
「父さんから結婚を申し込まれた時は大学を卒業して二年目で、まだ二四歳前だったらしいの、お祖父ちゃんからは『もう出て行った方がいい、君の人生を縛るつもりはない、君の幸せを見つけなさい、和也はどうにかなる』って言われて…… でもその頃はお祖父ちゃんも体調がよくなくて、母もいろんなことを悩んだと思うの、結果、結婚してしまったらしいけど、何故かそこは私もよくわかんないの…… やっぱり兄を一人にできないって思ったのか、お祖父ちゃんを放っておけないって思ったのか、お世話になったっていう思いもあったのかなー」
「お義母さんもお義父さんに魅かれていたんじゃないんですか?」
「えっー、それはないと思うけどなー、 私の知る限り、父さんは昔から母にやられっぱなしだからね……」
「そうですか……」
「ちょうど兄が小学校へ上がる前、風邪をひいて寝込んだ母が、朝、目覚めると兄が母のベッドに寄りかかって寝ていたらしいの、実母の死を目の当たりにしていた兄は、母が死ぬんじゃないかって、心配で、そこを離れなかったらしいの……」
「……」
「その日まで何となく流されてきた母が、この子はわたしじゃないとだめなんだ、病気なんてしていられないって思って、その時、心がぱっと目覚めたんだって……」
「実の親子以上ですね……」
「そうなの、二人の絆は血を超えている…… 実の娘の私でもあの二人の中へは入って行けない!」
「和也さんとはいくつ違うんですか?」
「六歳です。だけど母は、幼い私を周りの人達に任せて、兄のことばかりしていましたよ」
「そうなんですか……」
( 私は、この家でやって行けるだろうか? )
「心配でしょ、母が割り込んできそうで……」
「……」理穂はエリカを見つめると苦笑いをした。
「大丈夫ですよ、母もそこはよくわかっていますから、それに綾ちゃんに夢中よ、もちろん、綾ちゃんが兄の子どもだからってこともあるけど、この二年間、孫を想うように抱けなかったという募りに募った思いで、兄のことなんか眼中にないですよ」
「あんなにかわいがっていただいて、ありがたいです」
理穂はケーキを食べている綾を楽しそうに世話する義母を見つめて微笑んでいた。
「でも、綾ちゃんは独占されるかもしれないですよ……」
しばらくして皆が二階へ上がり父親の部屋へ入ると
「ひさしぶり……」和也は何もなかったかのように父を見つめた。
「元気そうじゃないか」
嬉しそうに彼も息子に一瞬目を向けたが、直ぐに隣にいる初孫と、息子の嫁に気を取られた。
「初めまして、理穂と申します。知らなかったこととはいえ、今まで申し訳ございませんでした」
彼女が静かに頭を下げる。
「とんでもないですよ、この難しい息子と一緒になってくれて、こんなかわいい孫を見せてもらって…… ありがたいことです」
ソファから立ち上がった父は、綾の前へいくと、
「お祖父ちゃんですよ、おいで……」微笑んで両手を広げたが、
「綾ちゃん、いらっしゃい」後ろから玲子が綾を抱き上げた。
「おいっ……」情けない顔で妻を見上げると
「簡単に孫を抱けるなんて思わないでよ!」
「どういうことだよ」
「勘当した息子の子どもよ、孫だって勘当しているのと同じでしょ」
「勘当って何のことだ」
「父さん……」和也がどうしたのと言わんばかりであった。
「勘当なんてした覚えはないぞ」
「何言っているの、とぼけて済ますつもりなの」
「母さん、いいよ、綾が全てを丸めてしまったんだよ……」
「だめ、今後どうするの?」
「どうするって言ったって…… 長男なんだから、この家に住んで社長に就任してってことじゃないのか……」
「あなたはそれを望んでいるのねっ」
「そりゃ、そうだよ、こんなかわいい初孫と離れて暮らすなんてできないだろう」
「いいわ、じゃあ、抱かせてあげる、綾ちゃん、ジージですよ」
玲子は綾を丁寧に夫に預けた。
「綾ちゃん、ジージですよ」そう言って祖父が抱き上げると
「ジージ、バーバ怖い?」
大きな笑いが一瞬でわだかまりを吹き飛ばしてしまった。
「今さらなんだけど、だいたい四年前、二人は何が原因で喧嘩したのよ、よく考えたら私その場にいなかったから知らないのよ……」
「信じられない人ね」玲子が笑いながら言うと
「それはだなー……」父親は話しにくそうであった。
「父さんはね、早く楽になりたくて、和也に取締役企画部長の職を用意して、色々画策していたのよ」
「いやそんなことは……」
「だけど和也はお祖父ちゃんから『人の上に立つ者はそれを支えてくれる者達の境遇や苦悩を知らなければその責任が果たせない』って教えられていたから、下請け企業にお世話になりたいって言っていたのよ」
「へえー、そりゃ大変だったね」
「最後に和也が『わかってもらえないのなら出て行く』って言ったら、父さんも『わかった、出ていくのなら二度と帰ってこないつもりで出て行け』ってことになったのよ」
「なるほど、それが勘当ということになったのね」
「だから父さんが勘当なんて言っていないって言うのもまんざら嘘じゃないのよ」
「ばからしい、どこにでもあるような親子げんかでしょ、売り言葉に買い言葉で、馬鹿じゃないの、それで四年も家を留守にする?」
エリカは呆れて和也に言葉を向けたが、
「申し訳ない、でもそのおかげでたくさんいいものを見ることができたよ、それにこんなことがなければ理穂にも巡り会えていなかったし……」
「父さんも父さんでしょ、いつまでも引きずって仕事までおろそかにして、ばか会長って言われているわよ」
「えっー、そうなのか? もう駄目だな俺は…… 和也、帰って来て、社長に就任してくれ、もういいだろう」
「ちょっと待ってくれよ…… 」
「待てと言えば待つけど、私のためじゃなくて、母さんのために帰ってくるべきだろう」
「……」
「母さんは一八の時からお前の面倒を見てくれて、自分の人生を犠牲にしてお前に尽くしてくれた人だよ、父さんと結婚したんだってお前のためだよ、その母さんにこれ以上辛い思いをさせるのはお前の本意ではないだろう」
「たまにはいいこと言うじゃないの、少し違うけど、まあいいわ」
「ちょっとだけ待ってくれ」
和也は理穂の背を押すようにして、部屋を出てかつての自分の部屋に入った。
「理穂、ごめん、こんなことになってしまって…… いつかはこんな日が来るんじゃないかって心配していたんだ。その時、理穂が解ってくれるかどうか、とても心配だった」
「いいわよ、これからはお母様に恩返ししないと罰が当たるわよ、お母様あってのあなたでしょ、夫婦なんだから…… 一緒に親孝行していきましょう」
「ありがとう、ただ綾は取られてしまうと思うよ…… 」
「いいわよ、人生かけてあなたのために生きて来てくれたお母様なんだから、あんなにかわいがってもらって、綾がお母様を幸せにしてくれるんだったら、それでいいわよ。それに二人目もいるし……」
「えっ!」
「子どもが二人になると大変よ、お金だっているわよ」
「そうだね」
「ところで、社長さんになったらお給料はどのくらいなの?」
実のところ、彼女は斎藤グループという会社をよく知らなかった。
「えっ、よくわかんないけど…… 四~五百万かな」
「えっ、お店だって六00万くらいあったのに…… この家の維持管理だって大変そうだし……」
「そんなのはおやじにまかせておけばいい」
「そうなの? でも四~五百万か…… 今、中小企業はどこも厳しいものね、仕方ないわよね」
「ごめん、勘違いしていると思うんだけど、月に四~五百万だと思う……」
「えっー!」
理穂のため息
とにかく急がなければと思った彼女は「昼食を食べてからにしたら……」という玲子に綾を預けて、とりあえずの必需品を取りに帰ろうと身支度を整えていた。
一緒に行くという和也を残して、帰ろうとする理穂に直ぐに車が用意された。
それは玲子が店に来るときに使っていた白の高級車であったが、彼女が車に乗ろうとすると、運転手がすかさずドアを開けて微笑んでくれた。
彼女が振り向いて、見送りに出てきた和也を不安そうに見つめると
「大丈夫だよ、直ぐになれるから…… 佐田さん、お願いしますね」と彼が運転手に声をかけた。
「かしこまりました。安全運転で行ってまいります」そう言うと深く一礼して運転席についた。
( なんで運転手までいるの? もう少し節約すればいいのに…… だけど四~五百万円て、ほんとかしら…… 何かからかわれているような気がする、あんな大きな家に住んで、お手伝いさんだって三人はいた…… これからの時代は大変なのに、もっと節約するように話さなくっちゃ…… よしがんばるわよ!)
後部座席で思いつめている跡取りの嫁をバックミラーで気にしていた運転手の佐田が
「いろいろ不安ですよね」と囁いた。
「はい、もう突然、こんなことになってしまってお店だってどうしたものかと……」
「でも大丈夫ですよ、皆さんいい方ばかりです。何の心配もないと思いますよ」
「運転手さんはもう長いんですか」
「はい、和也さんが小学生の頃からお世話になっています。基本的には取締役である奥様の専属なんで、ずっとご家族を見てきました。人としての格が違うと申しますか、とにかくすごい方ばかりです」
店に着いた彼女は
「すいません、どこかで二時間ほど時間をつぶしていただくことができますか?」と尋ねたが
「いいえ、大丈夫です。ここでお待ちしますので……」と答える佐田に
「ごめんなさい、正直に言わせていただくと、待たれてしまうと焦ってしまって、すいません……」申し訳なさそうに思いを伝えた。
「わかりました。おっしゃる通りですよね、そうしましたら、どこかで好きにさせていただきますので、準備が整いましたらお電話をいただくということでよろしいでしょうか? 私は仕事なのですから、二時間でも三時間でも構いません。ごゆっくりとなさって下さい」
「すいません、勝手なこと言ってほんとにすいません。助かります」
「とんでもないです」
店に入ると、理穂は客用のいすに腰掛け
「ふうーっ」と大きくため息をつくと一人ぼっちの店で静かに考え始めた。
( お店はどうするかなー、会社が大変そうだったら事務ぐらいは手伝った方がいいかなー、閉めるかなー、とりあえずお兄ちゃんには報告しておかないと……)
『お兄ちゃん?』
『どうしたの? 何かあったのか?』
『あっ、ごめん、学校だったね』
『いや、今日は研修で、今、昼休みだからいいけど……』
『あのね、お店やっていけないかもしれない……』
『えっ、だって順調って言っていたじゃないか?』
『そういうことじゃなくてね、今日、和也さんの実家に行ってきたの……』
『えっ、実家! 家族がいたのか?』
『そう、昨日の夜、聞かされて、お父さんからは勘当されていたらしくて、ただお母さんの調子がよくないって聞いて慌てて今日行ってきたんだけど……
和也さんの顔見たらお母さん元気になって、それはうれしいんだけど、大きな家でね、そこに住むことになったの…… 』
『そうか、それは急だなー』
『そうなのよ、それで和也さんもお父さんの後ついで社長になることになってしまって、今は中小企業も大変でしょ、私だって事務くらいならできるから手伝おうかと思ったりして、色々考えているの……』
『そうか、なんか様子が変わって来たなー、それで何ていう会社なの?』
『えーと、よく聞いたことないけど、斎藤クループかなんか、そんな名前だった。うちのお店の近くにあるの、兄さん知らない?』
『ちょっと待てよ、お前、和也君の父親って、斎藤真一か?』
『そうそう、兄さんよく知っているね』
『お前なー、斎藤グループ知らないのか?』
『知らない、そこのお店の人は食べに来てくれるみたいだけど、あまり関係ないし……』
『和也君が隠していたのがわかったよ…… あそこの御曹司だったのか、そりゃ隠すわな……』
『兄さん、何、訳の分かんないこと言っているの?』
『理穂、落ち着いてよく聞くんだよ』
『どうしたの?』
『斎藤グループって言うのは、日本でも三本の指に入る商社だ、最近は様々な分野でも活躍していて、すごい会社だよ』
『えっ、それほんとなの?』
『ほんとだよ、その辺の町工場じゃないんだから、お前がちょっと事務手伝うって言ったってそうはいかないと思うよ』
『…… 』彼女は固まってしまった。(四~五百万円、嘘じゃなかったの?)
『そりゃ家だってすごいだろ!』
『えっ、うん…… 困ったなー……』
『そりゃ大変だろうな、おれには想像できない! だけど、これで和也君が結婚するときに言いたくないことがあるって言っていたのがよくわかったよ……』
『えっ、そんなことあった?』
『大丈夫かお前、なるほどね、あの婚約指輪だって、杏子が鑑定書だけで友達に聞いたら、今は五00万出しても手に入らないって言ってたし、不思議には思っていたんだよ……』
『どうしよう?』
『そりゃどう見ても、お好み焼屋でアルバイトするような人間には見えなかったものな…… だけどあの時に、斎藤グループの御曹司だなんて聞いていたら、お前だって絶対に引いていただろう!』
『兄さん、偉いところに嫁いでしまったね』
『他人事みたいだな』
『でも、私も逃げるつもりはないわよ、綾だっているんだし……』
『ご両親はどんな人なんだ?』
『それがあのよく来て彩と遊んでくれるセレブがお義母さんだったの』
『えっ、ちょっと若すぎないか?』
『実のお母さんじゃないの、その辺は色々あるみたい、お父さんもお母さんに頭が上がらなくて、妹さんもいい人で、その辺は大丈夫と思うけど、お手伝いさんが三人もいるし、運転手だっているし、けっこう贅沢しているから、節約の話をしようかと思ったけど……
もう止めとく……』
『その方がいいね……』
落ちていく会長秘書
一方、屋敷を追い出された会長秘書の町田は帰社すると、直ぐに専務と常務に状況を報告した。
「まずいことに、息子の和也が屋敷に帰ってきそうです。今日は母親の見舞いに来ただけと言っていましたが、その内には帰ってきそうな感じです」
彼が鋭い目つきで話すと、顔を見合わせた二人は苦笑いした。
「どうしてそれがまずいんだ?」専務が尋ねると
「私は、近いうちにお二人の内、いずれかの方に社長に就任していただきたいと考えています。会社の将来のためにはそうあるべきだと考えています。私はおそばにお仕えして……」
そこまで言った時に、
「君は何か勘違いをしているね」
専務が滅多には見せない厳しい目つきで彼を睨みつけた。
「えっ、どういうことでしょうか?」
驚いた彼が目を大きく見開いて尋ねると、専務は常務に目配せして、何とかしてくれよ、と言わんばかりに呆れたような仕草をした。
「それは会長の思いかね?」常務が尋ねると
「はい、会長はそう考えているはずです」
「違うだろ、それは君の思いだろ、自分が社長を祭り上げて、自分はその影で好き放題したいんだろ、それができると思っているんだろ?」
常務が厳しく突っ込むと
「いえ、そんなことは……」彼は下を向いて言葉に窮した。
「だいたい、君は何様なんだね、君にどんな力があるのかね……」呆れた専務が口を挟む。
「……」これまでとは異なった様子に彼は驚くばかりで言葉が出ない。
「今、会長秘書の立場にあるだけ、それだけだろ? 会長の意を知りたい皆が大事にしてくれるから、いつの間にか自分が偉い人になったような錯覚を起こして、自分はなんでもできる、そう思っているんだろうが、愚かにもほどがあるぞ…… それに、なんで君が次の社長をシナリオするんだ、それを君に全権委任するほど会長は愚かではないよっ!」
再び常務が蔑んだように話すと
「でも……」言い訳をしようとする秘書に
「それに、お嬢さんにどうやって後悔させるんだよ、もし君が、明日から資料室長になったら、もう誰も君のことなんて相手にしないよ、職位っていうのはそういうものだよ」
エリカから連絡を受けていた専務は彼女に対して暴言を吐いた彼が許せなかった。
「だいたい、私達は社長になりたいなんて考えていないよ。早く跡取りを決めて身を引きたいんだよ……」専務の言葉に町田は俯いてしまった。
「君は、心ここにあらずの会長が全てを君に任せたのだと思ったのかもしれないが、今までの秘書だって、みんな任されてやっていたんだよ。息子さんが家を出てショックを受けた会長が何もやる気がなくなって、君はその隙を突いたように思っているがそれは違うよ。今まで社長秘書、会長秘書って言うのは、全権を任されても、トップの意向を汲んで、会社のために尽くしてきたんだ。君のように道を誤るものは一人としていなかったよっ!」
常務が話すと、驚いた彼は一瞬顔を上げたが再び俯いてしまった。
「君は人事課長を右腕のように思っているらしいが…… 」専務が言いかけたところで彼は顔を上げて
「はい、彼は優秀です。人望もあって頭の切れる男です」
「君は救いようがないね」専務は呆れたように呟いたが
「どういうことでしょうか?」
「二年前にアジアへ転勤になった係長の…… 」
「吉田ですか?」
「そうだ、その吉田係長が何故アジアに飛ばされたか、知っているのかね?」
「はい、彼は全く命令に従わず、注意をすれば仕事を休むような人間で、何度話しても同じことを繰り返すので、困り果てた人事課長が止むなく判断したと聞いています」
「その真偽は確認したのかね?」
「いえ、人事課長の決断ですから、問題はないと……」
「じゃあ、ほんとの理由は知らないんだね?」
「ほんとの理由って言われても……」
「彼はね、仕事中にたばこを買って来いって言ったんだよ、だけどそれに従わなかった吉田君に腹をたてて、アジアに飛ばしたんだよ!」
「まさか…… 」
「人事課の者はみんな知っているよ……」
「……」
「それから、今回の総務課長はどうかね?」
「はい、彼女こそ人望がなく、思い通りにならなければヒステリックになって、総務課の連中も困っている、だから一度海外を経験させてみたいと言うように聞いています」
「はははっ、おもしろいね、彼女には人望がないのかね……」
「はい、そう聞いています」
「ばかなことを言うんじゃないよ、彼女ほど部下から信頼されている人間はいないよ。将来はね私の、この席に座る人間だよ!」
「えっー!」
「君たちはそんな人材を放り出すのかね……」
「すいません、直ぐに撤回させます」
「もういいよ、和也さんが帰って来たのなら、何も問題はない…… 彼が直ぐに動くよ」
「でも……」
「もう下がりなさい、今日を限りに君はもう会長秘書ではない、自宅で謹慎していなさい」
「それは会長の意向ですか?」
「私の意向だ」
「それでは会長の意向を確認させてもらいます」
「君はばかか、いつまでそんなことを言っているんだ、もう君は会長に会うことも連絡を取ることもできないよ! 」
「……」
「和也さんのことだ、場合によっては君たちのこれまでの悪行の数々を調べ上げて、会社が被った被害について、個人的に損害賠償を請求するかもしれないぞ、覚悟しておくことだな」
うなだれたまま部屋を出た町田は、
(何とかしなければ…… まだ何か手があるはずだ……)
彼は最後の頼みの携帯電話を取り出すと会長に電話を入れた。
「もしもし、町田です」
「何の用なの? その携帯は早く秘書室に返しなさい、いつまで持っているつもりなのっ」
エリカが冷たくあしらうと
「お嬢さん、すいませんでした。一度だけでいいですから会長と話させて下さい、お願いします」
「話したくないらしいわよ」
「そんな……」
「お疲れさま」そう言うと彼女は電話を切った。
頭に来た彼は、その足で社長室に向うと、秘書の制止を押し切って部屋に入り
「社長、あなたの奥さんは不倫してますよ、ご存知ですか?」
「はあー、町田さん、家でのことは家内から連絡を受けましたけど、もう止めた方がいい、あまりに見苦しいですよ」
「いや、あの一家に騙されているあなたが気の毒でならない」
「もう止めて下さい! 彼女はそんなことができる女性じゃないですよ!」
「証拠だってあります、ほら……」
彼は小橋から送られていた写真を彼に見せたが、
「兄じゃないですか…… 馬鹿らしい…… もう止めなさい。人間、引き際って言うのは大切ですよ。落ちた所からさらに落ちるのか、そこで留まって耐えるのか、これ以上は見苦しいですよ」
冷静であれば、とてもできるようなことではなかった。
ただ、わずかの間に崩れ去ったしまった牙城に、彼は我を見失ってしまい、頭が真っ白になった状態で感情に任せて右往左往してしまった。
役員室が並ぶ長い廊下を肩を落としてとぼとぼと歩きながら、もうどうにもならないと思った彼は、最後の愚かな一コマを恥じながら、人事課長の小橋に電話を入れた。
( せめて彼にも覚悟だけはさせておこう )
最初はそんな思いだったが
「はい、小橋でございます。お疲れ様です。町田さん、先だってのクラブのあの女の子はいかがでしたか? またどうですか?」
こんなバカなお気楽な話を聞いて
この馬鹿野郎が…… 腹の立った町田は
「お前、アジアへ行かせた吉田は、たばこを買いに行かなかったから飛ばしたのか?」
「えっ、町田さん、どうしたんですか? そんな話は誰かのデマですよ、まさか信じているんじゃないですよね!」
「しゃあ、今回の総務課長はどうなんだ、部下の信頼も厚いそうじゃないか……」
「そんなことはないです、すぐにヒステリックになって……」
「もういい、お前みたいな馬鹿を右腕にしようと考えた俺がばかだった」
「町田さん、何があったんですか?」
「会長の息子が帰ってくるらしい、俺はもう駄目だ、お前も覚悟はしておく方がいい」
「会長の息子って…… あの家出していた息子ですか?」
「そうだ、うちの本社近くにお好み焼屋があって、そこの若旦那していたらしい」
「えっー!」小橋は目を見開いたまま固まってしまった。
「おい、どうしたんだ?」
「いや…… その……」
「この分だと、俺の知らない所でお前も好き放題やっていたんだろうな、俺も他人(ひと)のことは言えないけど……」
こんなやり取りの後、町田は静かに家へ帰って行った。
一方、小橋は慌ててお好み焼屋へ出向いてみたが休業になっていた。
落胆した彼は、あいつが社長の息子だったとは…… と顔をしかめた。
帰社した彼は、他の店ではないかという願いを込めて、皆に聞いて見たが、近くにあるお好み焼の店は、和也の店一件だけであった。
第五章 社長秘書、栗山奈美
栗山の思い
新社長に呼ばれた総務課長の栗山奈美は驚いていた。
常務から「東南アジアへの転勤はなくなったから」と聞いてはいたが、それでも社長直々に呼びだしを受けたことに、不安は否めなかった。
「失礼いたします」奈美は緊張気味にドアをノックした。
「どうぞお入り下さい…… お忙しいのに申し訳ありません」
新社長の何故か聞き覚えのあるようなさわやかな返事に少し救われたよう思いで入室すると、
「初めまして、総務課長の栗山でございます」
つい先日、お好み焼屋で《会長のばか息子》を連発していたこともあり、新社長の耳に入ること等はないにしても、その本人を前にして少し申し訳ないような後ろめたさも手伝って、彼女は新社長の顔を直視していなかった。
「初めてじゃないですよ、何度もお会いしていますよ……」
「えっ」呆然として彼を見つめるが、窓からの明かりが逆光になって栗山は全く分からない。
「えっ、わからないんですか?」驚いたように和也が笑いながら言うと
「申し訳ありません……」
「タコ玉はいかがですか」
「えっ……」目を見開いて驚いた奈美は、やっとお好み焼屋の亭主だと気が付くと、店で本人を前に自分は《バカ息子》を連発していたのだとわかり、《参ったー》と言わんばかりに眉間にしわを寄せ、
「申し訳ありませんでした」まさに穴があれば入りたいような心境であった。
「謝らないでくださいよ、あなたの言うとおりです。私が逃げている間に、家族だけでなく皆さんにどれ程ご迷惑をおかけしていたのか、よくわかりました。ほんとに申し訳なかったです」
彼が頭を下げると
「やめて下さい、穴があったら入りたいです」
彼女は顔を硬直させ静かに顔を左右に振った。
「これまでご迷惑をおかけしたことは十分に認識しています。ここからは本気で頑張りたいと思っていますので、是非、力を貸して下さい」
頭を下げる和也を見つめて
(この人は誠実な人なんだ)そう思った彼女だったが、
「私にできることでしたら何でもいたしますが、所詮、私なんて何の知恵もないし、力もない人間です。先日、お店でお話ししたように、理屈だけしか言えない人間なんです」
「まあ座りませんか……」
テーブルを挟んで向かい合った奈美に向って
「いいじゃないですか、理屈が通っていれば正しいでしょう。理にかなわないことを平気でやる人間が多くいるのに、理屈があれば十分です。それに力はつければいい。社長という後ろ盾があれば何も怖いものはないでしょう」
「でも……」期待されても困る、そんな表情で奈美が返事に窮すると
「とりあえず、あなたには部長相当職の社長秘書をお願いしたい!」
「そんな…… 」
「無理じゃないですよ。とにかくあなたがおかしいと思っていることは、私の名前を使って全て手掛けて下さい。失敗してもかまいません、とにかく手掛けて下さい」
「社長、それは駄目です。一人の権力者を創り上げてしまいます」
「いいじゃないですか。会長秘書だって、力を悪用してしまったからあんなことになってしまいましたが、もし彼がその力を会社のために使っていたら、いい会社になったと思いますよ」
「でも私には……」
「ああした立場の人間は組織には必要だと思うんです。ただ問題はそこに位置する人間なんじゃないですか。あなたは反論に対しても耳を傾けることができる、決して個人的な感情では動かない、冷静に人を見ることができる…… 」
「でもとても自信がありません……」
「自信なんて必要ないですよ、成功しようがしまいが、思ったことをやってくれればいいです。責任は全て私が取ります。それに、あなたの人事案件については、あなたの意見を聞くつもりはありません、既に決定事項ですから……」
「はー 」消え入るような、ため息ともとれるような返事であった。
「あなたの意見を聞きたいのはここからです」
「はい……」彼女は背筋を伸ばして姿勢を正した。
「まず、アジア支局へは人事課長に行っていただきたい、彼についてはこれまでのことを調査して退職勧告することも考えたのですが、彼自身が最悪と考えている部署に彼を異動させるのが適しているのかなと考えました。
次に人事課長には人事課の課長補佐を昇格させたいと思っています。この二件はいかがでしょうか?」
「問題ないと思います」
「はい、では次なんですが、会長秘書をどうするか悩んでいます。単純作業がたっぷりあって、何の力ももてないような部署がありますか?」
「実は、前人事部長は誠実な人だったのですが、会長秘書に意見して、資料室に飛ばされてしまいました。もし発言をお許しいただけるのであれば……」
「言って下さい」
「町田秘書を資料室長へ、資料室長を人事部長に、そして人事部長を会長秘書にと考えられてはいかがでしょうか?」
「わかりました。その他に直ぐにでも何とかしたい人事案件がありますか?」
「その他は、特に急ぐ必要はないと存じますが、アジア支局にいる吉田係長をどういたしますか?」
「どんな人ですか?」
「年齢は三五歳、人事課長から私的な命令をされて、それを拒んだため転勤させられた人です。悪い人間ではないのですが、頑ななところがありまして、譲ればいいようなことでも譲らないんです。ただ頭は切れます」
「以前はどこにいたのですか?」
「人事課です」
「そうですか…… 私的な用事って何だったんですか、ご存知ですか?」
「はい、たばこを買ってきてくれって言われて……」
「人事課長がたばこ買って来いっていったんですか。それで言うこと聞かなかったからアジアにとばされたんですか」
「はい…… 私も彼には事あるごとに話してはいたんです。もっと賢くなりなさい、譲れない部分は仕方ないけど、どうでもいいようなことまで噛みつかなくてもいいでしょうって、でも彼は、あんな奴の下で仕事するくらいなら、アジアでもアフリカでも行きますよって……」
「はははっ、楽しい人ですね」
「はあー、豪快と言えば豪快で、馬鹿と言えば馬鹿なんですかね」
「栗山さんの片腕として育てるつもりはないですか?」
「それはもう、傍に置かせて頂けるのであれば安心ですし、何より頭が切れますから助かります」
「そうですか…… でもそんな人がそばにいてやりにくくはないですか?」
「それは大丈夫です、私の話は小理屈言わずにちゃんと聞きますから……」
「それでは、秘書室で受け入れてくれますか」
「わかりました。」
「大至急臨時役員会を開いて新社長誕生になりますが、私はもう明日からこの部屋に詰めます。この案を明日には、現在の社長名で発令しますので、直ぐに常務と打ち合わせして下さい」
「新社長は既に取締役だったんですよね」
「そうなんです。名前だけですけどね…… 明日からよろしくお願いしますよ」
「はい、精一杯勤めさせていただきます」
常務と栗山が打ち合わせをする中で、
「顔も見たくないのはわかるが、異動辞令は社長室で行うべきだよ、新社長はまだ正式に決定しているわけではないから、彼の立会いのもと、君がやるのが筋だと思うよ……」
「でも、出席するでしょうか?」できれば来てほしくない、そんな思いで彼女が尋ねると、
「私が言い含めるよ…… 」
「そうですか、わかりました」心配そうな彼女に
「何が不安なのかね?」常務が尋ねると
「自分でもよくわからないんです、地獄に落ちろと思ったこともあります、でもそんな個人的な思いはもう薄れています。社長秘書と言う立場でどうすればいいのかよくわからないんです」彼女は胸に絡まっている思いを打ち明けた。
「栗山君らしくないなー」
「常務、昨日まではアジアで何してやろうかと思っていたんです。こんなこと言うと叱られるかもしれませんが、常務や専務が会長の息子さんが帰ってくるのを信じていると聞いて、正直、あり得ないと思っていました。でも帰って来て、突然、社長秘書だって言われて、おかしいと思うところは全て改革してくれって言われて…… 私はまだ頭の整理ができていません。お恥ずかしい話ですが、これが今の私です。恐いもの知らずだった頃の総務課長が懐かしいです」
「はっはっはっー、君がそんなにしおらしいと笑うしかないよ……」
「常務」
「ごめんごめん、今、君がその立場で彼らに何を言いたいかね、思っていることを言ってごらんよ」
「はい、まず人事課長には、報復人事ではない、社長の温情であること、損害賠償をしないと決断した社長に感謝して、自分が最も嫌だと思っていたアジア支局で、その嫌だった部分を改革しなさい、そしていつかアジアで活躍したいと願う社員が出てくるように頑張りなさい。一度失った信用は取り戻すのは難しいけど、もし実績を作ることができれば、また一線で活躍できる日が来るかもしれない。こうした社長の思いがあっての異動なんだということを強調したいです……」
「栗山君…… 」
「はい…… やはりおかしいですか?」
「バカを言うんじゃないよ、二00点だよ」
「常務……」
「君はそういう思いや考えをいつも頭に持っている。社長はどう思うだろうか、専務や常務はどう言うだろうかなんて、そんなことは考えなくてよろしい。今みたいに考えていることを口にして実行していけばいい、私たちはもちろんだが、新社長もそれを望んでいる。
思ったこと考えたことをどんどん実行しなさい」
「はい、ありがとうございます。」
「それから会長秘書はどうするかね、私はそちらの方が聞きたいんだが……」
「はい、彼はとてもずる賢い人間です。人事課長のようにお調子者のバカではありません。頭も切れます。彼は場合によってはわが社の傷口を見つけて、そこから糸口を見つけるようなことだってやるかもしれません。だから彼には絶対に息を吹き返さすことはさせません。
そのため、資料室で真面目に勤めている限りにおいては個人的な損害賠償は控えるが、もし何かあった時には直ちに訴訟に踏み切るということを伝えて、退職まで十字架を背負わせます」
「すごいね…… 人を見る目は確かだね、彼にそんな力がないといって安心することはしない、危険な芽は徹底的に摘み取るかね」
「はい……」
「君を敵にはしたくないね……」
「常務……」
人事異動…… 見苦しい者達
常務は、会長秘書と人事課長に、辞令を受け取りに来なければ賠償請求に踏みきると脅して彼らを来社させた。
その翌日、指示された一0時に秘書室で待っていた二人の内、まず会長秘書が社長室に呼ばれた。
入室した彼は、ドアの正面に立っている栗山に目を向けた後、右手奥に座っている新社長の所へ向かおうとしたが
「そこで止まって下さい、私から異動の発令をいたします」彼女に厳しい声で制止された町田は一瞬、鼻で笑ったが、栗山の方へ向き直った。
「本日より資料室長を命じます。幹部協議の中で大半の意見は、あなたに損害賠償の請求をするべきということでしたが、新社長の一声でそれにストップがかかりました。新社長がおっしゃったのは、あなたも最初からあんなではなかったのだろう。彼にも家族がいるだろう。何とか訴訟だけは回避してあげたい、こういうことでした。そのため、幹部全員の意見として、まじめに勤め上げるのであれば良しとするが、今後何かあった場合は直ちに訴訟に踏み切ることを条件として社長の意にそうことといたしました。私自身も個人的な思いはありましたが、決定した以上は止むを得ずと考えています。従って今後は周囲の厳しい目で監視されることになると思いますが、最善を尽くして下さい」
彼女は機械的に話を進めた。
「幹部とは一体誰なんだ?」彼が不機嫌そうに尋ねたが、
「言葉に気を付けなさい、それにあなたがそんなことを知る必要はありません。私は社長の代理としてここに立っています。そのことがわかっていますか。異動初日から平気でそういう発言をされるのであれば私にも考えがありますが……」
「訴訟なんてできる訳ないだろ、何の証拠があるんだよ……」
「この二~三日調べただけでも見積もりよりも高額で発注させ、そのバックマージンを受け取っているもの等、三億以上が確認できています。そこまでおっしゃるのなら、私も新社長を説得して訴訟の準備を進めますが…… よろしいんですか?」
最後の一言は威圧的であった。
彼は俯いたまましばらく言葉が出なかった。
「わかった、すまなかった…… 私は辞職したいのですが…… その場合はどうなる?」
「新社長の意向は聞いていませんが、社員でなくなった方に温情は必要ありませんので、直ちに訴訟に移らせていただきます。」
「新社長も同じ意見ですか?」彼は右奥に座っている和也に向って尋ねたが、
「私が責任を持って訴訟に踏み切ります。新社長が反対されても徹底的に行きます。個人破産したいのなら、お好きにどうぞ……」
「わかったよ……」
「それから、先日あなたが購入されたマンションには、一億円借り入れの抵当権を設定させていただきますのでご了承下さい」
「それは無茶じゃないか……」
「何が無茶なのよ、私はあなたの自宅や預金だって差し押さえしたいのよ、新社長の温情が解らないの!」彼女が声を荒げた。
「……」
「以上です、退室して下さい」
肩を落として俯いたまま出てきた町田を見た人事課長の小橋は
(どうなったんだ、あんなに呆然として…… アジアでも行かされるのか…… )
そう思って少し恐ろしくなったが、呼ばれるままに社長室に入った。
「そこで止まって下さい」栗山の言葉に彼は立ち止まったが、右奥にいる新社長を見ると俯いてしまった。
「あなたにはアジア支局へ移動していただくことになりました」
驚いた彼は目を見開いて顔を上げると奥にいる新社長に向って
「すいませんでした。あの試食の話はほんの冗談のつもりだったんです。ですから……」
今にも泣き出しそうな表情で訴えようとした彼は
「静かにしなさい……」
栗山によって遮られた。
「あなたはこれを報復人事だと思っているんですか?」
「違うのか……」
「言葉に気を付けなさい、あなたは課長職、部長職の私があなたに『違うのか』などと言われる筋合いはありません、加えて今私は社長の代理としてここに居ます。そのことがわかっていますか」
厳しい目つきで睨み付けると、彼は黙って俯くしかなかった。
「私個人の意見としては、懲戒解雇した上であなた個人に対して賠償請求を行うべきと考えていましたが、新社長は『もう一度あなたにチャンスを与えてくれないか』という思いを口にされました。自分が最も嫌だと思っていたアジア支局で、その嫌だった部分を改革してほしい、彼にはその部分が解っているはず、そしていつかアジアで活躍したいと願う社員が出てくるような支局にして欲しい、一度失った信用を取り戻すのは難しいけど、もし実績を作ることができれば、また一線で活躍できる日が来るのではないか…… あなたにだって家族がいるのだろうし、そのあなたに個人破産させるのは忍びない、こうした社長の思いがあっての異動なんですよ…… あなたは試食を持って来いといった人なのに…… 私には社長のこの優しさがわかりません。しかしながら、これが社長の意向ですから私も今までのことは水に流して忘れます。だからあなたも頑張って下さい! 以上です」
そこまで聞いた彼は涙を流しながら新社長に向って深く頭を下げると退室していった。
「二人への対応が全然違うんですね、聞いていて笑い出しそうでしたよ」
「会長秘書はとてもずる賢い人間です。頭も切れます。場合によってはわが社の傷口を見つけて、それをねたにゆするようなことだって平気でする人間です。ですから彼には何の画策もできないように、退職まで十字架を背負ってもらいます」
「なるほど、あの人を知っていればこそなんですね…… 」
「人事課長につきましては、彼は調子者のバカです。でも昔はやり手の営業マンだったんです。アジア支局がある以上、経費は掛かっていますから、放置しておくのもどうかと思います。もしお調子者の彼が何か実績を残すことができれば会社にとってもありがたい話です。どうせ経費が掛かるのなら、彼に一生懸命やらせてかすかな可能性でも0よりはましかなと思っています」
「あなたはほんとにすごい人ですね! 私は当分楽ができます。でも何かあれば絶対に私を使って下さい、私は死ぬまであなたについて行きますから……」
「社長、よして下さい、絶対に私の方が先に死にますから……」
顔を見合わせて二人は笑った。
見えないものが見える人
「ここからは、新旧人事部長と、新人事課長ですので社長から一言お願いできますか?」
「はい、それはいいですが、吉田係長は?」
「彼は係長職ですから私の方で済ませます」
「できれば吉田さんにもお会いしたいのですが…… 」
「解りました、それでは新人事課長の後でお願いします」
新旧人事部長は、新社長の誕生をとても喜び気持ちよく社長からの辞令を受け取り退室していった。
人事課課長補佐の岡野が入室してくると、何も知らされていなかった彼は、人事課長に任命されて、
「とんでもないです。それはお受けできません。私は人事課の課長補佐でありながら、課長を止めるどころか、進言することさえできなかった。ほんとに恥ずかしいと思っています。
できることでしたら、前人事部長がいらっしゃる資料室に行かせて下さい」
彼はここまで自分を責め続けてきたのだろうか、懇願するように話した。
「岡野さん、あなたはご立派だと思いますよ…… 家族がいるから仕方なかった…… 当然のことじゃないですか、家族をおろそかにするような人にいい仕事ができる訳がない。あの厳しいやりきれない人事課で、あなたが懸命にできることをしようとしていたことは皆さんが知っています。自腹を切って、お好み焼屋に頭まで下げて、それでも何とかなるものは何とかしたいと頑張っていたあなたは立派だと思いますよ」
「えっ……」
それを聞いた岡野は顔を上げて新社長を見つめると気が付いたのか目を丸めて
「社長、お好み焼の……」
「黙っていてすいませんでした。決して探っていたわけではないのです。私自身、できることならあの店で生きて行きたいと考えていたのですが、栗山さんに何度も『ばか野郎』って罵倒されまして目が覚めました」
「社長……」彼女は恥ずかしそうに俯いた。
「私はあの時のあなたの行動にはほんとに感激しました。人事はひとごと、文字を変えれば他人事、そう言う人もいますが、私は人事は心事、心のことだと思っています。苦悩や悲しみを知っていればこそ、心の籠った人事ができると信じています。あの人事課長のもとで苦悩に耐えてきたあなただからこそ、皆が納得できる人事ができると思っています。それに資料室長はここで人事部長に戻りますから……」
「えっ……」
「新しい人事課長があなただと言ったらとても喜んでいましたよ」
( 若いのにこの社長はすごい人だ、やはり血筋なのか…… この人のために頑張ろう、この人に恥をかかせるようなことだけは絶対にできない…… )そう思った彼は
「はい、そんなに言っていただいて光栄です。精一杯勤めさせていただきます」
心で強く決意していた。
彼が退室するとアジアから急遽呼び戻され、一時間前に本社に到着したばかりの吉田が入って来た。
何がどうなっているのかわからない彼はさすがに不安を隠せなかったが、それでも入室して直ぐに栗山に気が付くと、ほっとして微笑んだ。
「長い間、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした」
和也が席を立って彼の方へ歩き始めると
「新社長です」栗山が唖然(あぜん)としている吉田に紹介した。
「あっ、いえ、とんでもないです…… 訳の分かんない奴がいない中で平和にしていましたから……」思わず本音の出た彼に
「馬鹿ッ」栗山が小さな声でいうと、
(しまった)と言うように彼は首をすぼめた。
「ここに座りませんか?」
「社長、それは……」栗山が言いかけたが
「いいじゃないですか、栗山さんもどうぞ……」
と彼に遮られた。
「それでは、失礼します」吉田も栗山に目配せされて彼女の隣に座った。
「私が愚かなばかりにご迷惑をおかけして、本当に申し訳なかったです。栗山さんに『バカ息子』と連発され、やっと重い腰を上げる決心ができました。でも所詮素人の私があがいても空回りするだけです。ここからは全てを栗山さんに一任して、彼女には影のドンになってもらいます。ただ彼女にも右腕が必要です。彼女はあなたを右腕にと申しでてきました。ぜひ彼女の力になって上げて下さい」
「えっ、私がですか?」
「ええ、彼女はあなたを一番買っているみたいですよ……」
「ほんとですか……」彼は栗山に目を向けたが、彼女は腕組みをしたまま目を閉じていた。
「本当ですよ、でもそれをあなたに伝えると、あなたが調子にのってしまうって思って、今怒っていますよ」
「えー、栗山さん、社長に腹立ててどうするんですか、だめですよ……」
「社長、こんな奴なんですよ、おだてたらだめですよ……」
「ははははっ、でも、良い人なのはわかります」
「はっ、恐縮です」
「ちょっと待ってください」彼はそう言うと秘書室に電話を入れて
「コーヒーを三つお願いします、一つは砂糖とミルクたっぷりで、後の二つはブラックで」
「……」
「はい、それでお願いします」
「ところで吉田さん、一つだけお願いと言うか、確認しておきたいことがあります」
「はい、なんでしょうか?」
「今後、栗山さんのもとで動いていただくことになりますが、そうした中で彼女の行動や発言の一部に納得できないことや、おかしいと思うことがあるかもしれません」
「はい……」
「そうした時、そこで意を唱えるか、聞き流すか、その差は何だと思われますか?」
「私は直ぐに口に出してしまいますが…… 普通の場合、信頼しているかどうかということじゃないでしょうか」
「私もおっしゃる通りだと思います。今後、もしそうした場面に出くわしてしまった時に、あなたが栗山さんを信頼しているのであれば、彼女を信じて上げて欲しいんです。彼女は今後多様な課題に取り組んでいくこととなります。彼女は、物事を点で見ることはしません、ある時は線で、時によっては面で事実をとらえていく人です。一点だけ見つめれば他にもっといい案があるように見えても、線で見た場合は、全く別の考え方を求められる場合もあります。今後彼女にとって何が一番つらいかと言えば、あなたに異をとなえられることだろうと思います。相手側が言うのであれば、何を言われても何てことはないと思いますが、右腕のあなたに異をとなえられると、立ち止まってあなたを理解させなければならない、相手があなたであればその労力は相当なものです。疑問が生じてもとりあえず彼女を信じて上げて欲しい。彼女はそれに値する人だと思っています」
「申し訳ないです、私の性格を知っておられて、やんわりとご指導いただいて、ほんとにありがたいです。おっしゃることはよくわかります。心してかかります。ほんとにありがとうございます」
「とんでもない、こちらがお願しているのですから……」
その時、秘書がコーヒーを運んできた。
「その甘いのは吉田さんに……」和也が言うと
「えっ、どうしてご存知なんですか?」栗山が驚いて尋ねた。
「いや、なんとなくそんな気がしたんですが……」
「えっー、社長、やっぱり変ですね、以前もわたしを総務課長だって当てましたよね……」
「そうでしたか、思いつきで言ったことはあまり覚えていないんですよ」
事実は、英語が話せる理穂に頼んで、現地事務所の女性に聞いて、彼についての情報を入手していただけのことである。
彼が退室した後、
「とりあえずスタートラインには立ちましたね。これから色々大変だと思いますよ、でも身体だけは大事にしてくださいよ」
和也が微笑んだ。
「社長……」何かを口にしようとしたが栗山は黙って俯いてしまった。
「どうしたんですか? 何かまだ気になることがありますか?」
「いえ、そうじゃないんですけど……」どうも煮え切らない。
「どうしたんですか、あなたらしくない……」
「全く失礼な話で申し訳ないんですけど…… 社長は大学を出て、修士、博士と進んで二七歳で家を出られて、そこからはずっーとお好み焼屋をされていたんですよね?」
「その通りですよ……」和也は栗山の疑問が解らなかった。
「今日の社長の話は、彼らの心に突き刺さったっていうか、彼らを感激させてしまったって言うか、彼らは『この人のためなら死ぬ気で頑張る』、みんなそんな思いで帰って行きましたよ……」
「そうだといいですね、もちろん町田と小橋は別でしょうが…… 」
「不思議なのは社長の言葉なんですよね……」彼女は真剣に言葉にした
「どういうことですか?」
「特に吉田への話はありがたかったです。あんなことまで気を使っていただいて涙が出そうでした。でもよく考えたら、わたしだけでなく、新旧人事部長も、岡野人事課長も…… あの吉田でさえ感激してかえっていきました。もう社長に心酔していますよ」
「そうなんですか?」
「社長は、どこかの企業で経験積んだわけじゃないですよね…… なのにどうしてあんな人を心酔させてしまうようなことが言えるんですか?それもタイミングよく……
どこで勉強したんですか? 私はそれが不思議でなりません」
「そんな所にまで頭が回るんですね…… 驚きました。お話ししますが、あなたの胸に留めて下さいよ…… 」
前のめりになり、さも話してはいけないことを話すような雰囲気で彼がそう言うと
「はい、もちろんです…… やはり何か見えるんですか?」
栗山もその雰囲気に、つい思っていたことを口に出してしまった。
「ははははっはっ、栗山さんがそんなこと言うなんて…… お腹がいたい」
和也が大笑いしたが
「いや、でも、どう考えても結論がでないですから……」栗山はいたって真面目であった。
「違いますよ…… 私の博士論文は大したことないんですよ、適当にやりましたから……
でも修士論文は性根入れてやったんですよ、それが『企業における人材とその活用』というタイトルなんです…… 今の私はその論文に乗っ取って動いています」
「はー そういうことですか……」彼女は気が抜けたように呟いた。
「そういうことなんです」彼は少し誇らしげであった。
第六章 「社長夫人」って言われても……
二日後、理穂は和也から呼び出され会社に出向いた。
初めて見る斎藤グループ本社に、会社は何階にあるんだろう、と思いながら入口へ入ると、正面にある受付に進み
「あのー、すいません、斎藤グループは何階にあるのでしょうか?」と尋ねたが、
「このビル全てが斎藤グループでございますが、本社のどちらへお越しでしょうか?」
「あのー、社長の所へ……」
「失礼ですが、お約束はされていますか?」
「いえ、具体的にアポイントは取っていないのですが、午後にと言われていまして……」
もう一人の受付嬢が直ぐに秘書室へ電話を入れて確認すると
「あの誠に失礼でございますが、奥様でいらっしゃいますか?」
「あっ、はい、お忙しいのに申し訳ありません」理穂が深々と頭を下げると
「失礼いたしました。お顔を拝見したことがなかったもので、誠に申し訳ございません」
「とんでもないです。主人がいつもお世話になっております」再び深々と頭を下げる理穂に
「とんでもないです。どうぞこちらへ」
そう言うとエレベーターへ案内され、七階へと向かった。
「あのー、主人は皆さんにご迷惑をおかけしていませんか?」
二人きりのエレベーターで理穂が尋ねると、
「奥様、とんでもないです。新社長が着任いただけるということで、社員がどれほど喜んでいることか、社内が一気に明るくなりました」
「そんなに言っていただけるとうれしいです。でも何かありましたら遠慮せずに言ってやって下さいね。言い難ければ私にご連絡下さい」
「奥様、何も心配なさらなくても大丈夫と存じます。でも何かあれば必ずご連絡いたします。
もし、悪い虫が付きそうになったら、直ぐに連絡しますから……」
「ありがとうございます。心強いです」理穂は笑顔で応えた。
七階でドアが開くと、二人の秘書が待っていた。その内の一人はもと総務課長の栗山であった。
「奥さん、お呼び立てして申し訳ございません。社長とご一緒に聞いていただきたいことがございまして……」
「とんでもないです。でも栗山さんがそばにいて下さるので、すごく安心です。お好みしか焼いたことのない和也さんに社長なんてできるはずないって思っていたんですけど、栗山さんがそばにいて下さるって聞いて私も気持ちがすごく楽になりました」
「とんでもないです。私なんか、社長の手のひらの上でいいように踊らされています」
「栗山さん、あの日の『バカ息子』の連発で目が覚めたんですかね?」
「奥さん、それはもう言わないでください。社長があなたのご主人だってわかった時、私は心臓が止まるかと思いましたよ、ほんとに穴があれば入りたかったですよ……」
「いえいえ、ああいう風に言って下さる方がいないと、あの人は駄目ですよ。直ぐに都合のいい方を向いて、『これが自然の流れだ』とか言って小理屈並べますからね」
「奥さん、そんなことないですよ」
「いいえ、そこが心配です。何かわけのわからないこと言いだしたら直ぐに連絡くださいね。
そこは栗山さんのお力になれると思いますので……」
「ありがとうございます。社長から何か言われるより心強いです」
社長室に入ると
「和也さん、すごい会社なのね、受付で斎藤グループ何階ですかって聞いたら、全部ですって言われて腰が抜けそうになったわよ…… 」
「そうか、あまり会社のこと話していなかったからなー、今日はちゃんと見学して帰ったら……」
「いやよ、恥ずかしいもの、わたしね、兄さんにね、中小企業は大変だから事務でも手伝おうかって考えているのって言ったんだけど、斎藤グループって知ったら、迷惑になるからやめときなさいって言われたの。何も知らないって恥ずかしいわね、ここのどこで事務手伝うのよね……」
「奥さん、楽しい、ほんとに楽しい、社長が幸せなのが解ります」
「えっ、そんなー、ありがとうございます」
「あっ、忙しいのにごめん、ごめん、店のこと?」
「はい、お店をどうされるかということなんですが……」
「えー、そんなことまで考えてくださるんですか、会社とは関係ないのに……」
「いいえ、全く関係ないとも言えないんです。社長にはあそこで息抜きされたいっていう思いがありますから……」
「えっ、じゃあ、私が続けましょうか?」
「奥さん、それはお許しください」
「そうですよね、社長の奥さんってわかったら大変ですものね、でも、昔から内のお好み焼が好きで、来てくださっている方もいるから、閉めるのも申し訳なくて……」
「そこでご提案なんですが、9月退職者の中に、あの店を引き継ぎたいという者がいまして、
もともとはラーメン屋かうどん屋をやりたいと考えていたのですが、店舗を借りるだけでも相当に費用が掛かります。そのため、長年の夢をあきらめかけていたのですが、お好み焼も大好きな人で、夫婦でやりたいという確認は取っています。条件として、味を引き継いでくれることと、住居、店舗共で月六万円で考えています。もう少し高めでもいいかとも思ったのですが、退職後は収入も無くなり、厳しくなります。今の住居が八万円ということでしたので、六万円ならと思っています。
なによりも人柄の良い人で、総務課で課長補佐をしている人です。途中で大病を患ってしまって、出世ができなかった人ですが、年下の私みたいな者でもちゃんと立てて下さって、人としては申し分ない方です。この提案は私からのお願いも含まれていますが、そこはご容赦いただきたいと思います」
「ありがとうございます。じゃ、レシピをお渡しすれば、今の味を継続して下さるんですね。
うれしいです。何でしたら、もっと安くてもかまいませんよ、ねえパパ?」
「ええ、栗山さんがそんなに思われている方なら、ただでも構いませんよ」
「いいえ、そこはそういう訳にはいかないと思うのです。失礼ですが所有権を調べさせていただきましたら、亡くなられたお父様の名義のままになっています。理穂さんが嫁がれた以上、この店の所有権は、先祖を祀られるお兄様が引き継がれるべきものと推察いたします。従って、この家賃はお兄様にお支払いすべきかと存じますが……」
「確かに、おっしゃる通りですね、全く考えたことがなかった……」
「私も、それでいいです。あそこの店は私の物と思っていましたけど…… 確かに兄が引き継いでいくべきですよね、ありがとうございます。そんなことまで考えて下さって、ほんとに感謝します」
「とんでもないです。お二人とお兄様の了解をいただければ、社長のわがままを聞いていただくことも条件にして話を進めたいと思いますが……」
「お願いします。兄には私から話しておきます」
「お兄様の確認後でなくてもよろしいか?」
「それは大丈夫です」
話が済んで、送ろうとしてくれた秘書を七階のエレベーター口で制した理穂は、来るときに七階まで同行してくれた受付の女性に携帯番号を知らせておこうと思い、一階でエレベーターを降りて受付へいくと、そこで、外国人が何か言っているのだが受付嬢が理解できずに対応に苦慮している場面に出くわしてしまった。
『どうかしましたか?』
『この人達が理解してくれなくて困っています』
『何か、御用ですか?』
『この近くにお好み焼の店があると聞いてきたのですが、わかりません』
『この前の道を左に進んで、三つ目の角を右に曲がると、右側にあります』
『ありがとう、助かりました。日本では私の言葉は理解してもらえなくて困っています。あなたの英語は素晴らしい』
『よろしければ、私の携帯の電話番号を教えましょうか?』
『なぜ?』
『困った時に、電話で通訳できますよ』
『助かります、日本の女性は素晴らしい』
『でも、店は今はしまっています』
『来週の末には開きます。その頃まで近くにいますか?』
『京都に行きたいので、帰りによってみます』
『店が開いたら電話します』
『ありがとう』
『どういたしまして』
この間のやり取りを聞いていた二人の受付嬢は、ただ理穂に見とれていた。
彼女達も決して英語が話せないわけではなかったが、この英語は全く理解できなかった。
「奥様、すごいですね、英語ではなかったのですか?」
「いいえ、英語なんですが、恐らく後進国の方だと思います。文法に頼ると理解しにくくて、ちょっと癖みたいなものがありますね」
「奥様、尊敬します……」
「そんなー、あっ、携帯教えておきますね。虫が付きそうになったらお願いします」
「はい、責任を持って……」
「あの人、なんかすごいね、最初はおどおどして入ってくるから、どこの田舎から出てきたんだろうって思っていたら、社長の奥さんで、あんなおとなしそうな人で大丈夫かって思っていたら、英語ペラペラで、それもあんな訳の分かんない英語理解して…… ギャップがすごいね…… もう少しおしゃれすればいいのに……」
「そうだね、疲れたね」
受付嬢のボヤキだった。
その日の夜、理穂は兄に電話を入れ状況を説明した。
『あそこはお前の物だから、好きにすればいいよ』説明を聞いた兄はそう答えたが
『そういう訳にはいかないって、和也さんも栗山さんも、嫁いで家を出た以上、あそこは家を引き継いでいく兄さんにお返しすべきだって……』
『そうか、まあ月に六万何て、斎藤グループの社長からすればなんてことないか……
じゃあ、ありがたくいただくよ』
『そうして……』
『だけどさあー、そうなるんだったらちょっとお願いがあるんだけど、その六万円、杏子には内緒にしてくれないか?』
『どうして?』
『あいつ、墓を立てるとか言って、節約してさー、俺も小遣減らされて厳しいんだよ……』
『どこの家のお墓?』
『そりゃ、うちの中村の墓だよ……』
『何言っているの、感謝しなさいよ、隠し事なんてしたら罰が当たるわよ……』
『おい、理穂、頼むよ……』
『だめ!』
『やっぱりな、だめか……』
それから一週間後、臨時の取締役会が開催され、会長と、旧社長であるエリカの夫、隆の辞任が承認され和也は正式に代表取締役社長に就任した。
第七章 母、玲子の真実
愚かな女
「あの斎藤さんは、どういう方なのかしらねー、徒歩で通ってくるなんて、この明麗(めいれい)保育園の名前に傷がつきますわよね、お車は無いのかしらね、服装もなんか質素で貧乏くさいわよね……」
町野衆議院議員の妻、町野正子が蔑むような目つきで、手をつないで楽しそうに歌を口ずさみながら門に入って来た理穂と綾を見ながら、周囲の取り巻きに語りかけた。
「おはようございます」笑顔で明るく挨拶する理穂に、取り巻きを含む五~六人の母親たちは軽く頭を下げるだけであった。
「どうしてあんな人が入園できたのでしょうね? それもこんな途中で……」
取り巻きの一人が正子を覗き込むように話すと
「ほんとにね、また園長に聞いてみますわ……」
「あっ、あの人、確かお好み焼屋の奥さんですよ……」
「えっー、なんてことなの……」
夫の町野一郎は、早くに亡くなった父親の地盤を引き継ぎ、二9歳で初当選したのだが、一年後の解散でも、議席をしっかりと守り、その後も無難に乗り切り、来年の任期満了に伴う総選挙に向けて四期目のために地盤固めに奔走している三八歳の若手のホープであった。
当初は頭も低く、さわやかで好青年というイメージが強く評判も良かったのだが、三期目に入ると幹事長にもかわいがってもらうようになり、恐いものがなくなったのか、横柄な態度が目立つようになっていた。
夫が変わっていく中で、当然のごとく妻の正子も気を使ってくれる周囲の人達には上機嫌で、いつの間にか自分を特別扱いしてくれない人間を忌み嫌うようになっていった。
しかしここにも彼女をそうした人間にしたててしまった原因があった。
ある日、銀行に出向いた正子は、多くの客に紛れて順番を待っていたのだが、それを見た支店長が慌てて彼女を応接室に通し、平身低頭して、彼女の要望に応えたのであった。
気を良くした彼女は上機嫌で帰宅した。
それから何日かして、熱を出した息子を連れて、地域で最も大きな総合病院の小児科の待合で多くの人達に囲まれて待っていた時、病院の事務長がそれに気づき、彼女を別室へ案内すると最優先で子供を診てくれたのである。
再びこれに気を良くした正子は、その時以降、そうしたことを暗に求めるようになっていった。
話は戻るが、正子の取り巻きの中で、二十歳代の最も若い国仲美鈴は、過去の経験を思い出し、帰宅途中の理穂に話しかけてきた。
「斎藤さん、ちょっとよろしいですか?」
「あっ、はい」
二人は少し奥に入った所にある喫茶店で話し始めた。
「斎藤さん、健康のために歩いて通園されているんですよね?」
「はい、そうです。今の季節は、朝は気持ちいいですよね」
「はい、実はわたしもそうしたいのですが、町野議員の奥さんが…… 」
彼女は取り巻き連中の話を持ち出して心配そうに状況を説明した。
「私も以前は歩いて通園していましたので、何かあるたびに嫌がらせをされて……」
「そうだったんですか、ありがとうございます」
「いいえ、恥ずかしいのですが、私も知らない間に取り巻きの一人になってしまって、なかなか抜け出せなくて……」
「大丈夫ですよ、そんな腐ったような人の勢いなんて、いつまでも続かないですよ。世の中、そんな風になっていますから……」明るく理穂が言うと
「でも、心配なんです。園長にも話すって言ってましたし……」
「園長がそんな人にしっぽ振るような人だったら、こちらから止めさせていただきますから……」
「斎藤さんは強いですね……」
「だいたい、私はこんなところじゃなくて公立に行かせたかったのに、主人の母が是非にって言うからここに来たんです。だから、いつでも止めますよって、そんな感じなんです。
だから国仲さんも気にしないでください」
その日のお昼過ぎ、園長を訪ねた町野正子は
「園長先生、こんなことは言いたくないのですが、この明麗(めいれい)保育園に徒歩で通うというのはいかがなものでしょうか」話し始めは比較的おだやかであった。
「町野さん、この保育園では通園手段の規定はしていませんよ。徒歩だろうが、自転車だろうが、全く問題はありませんよ」静かではあるが揺るがない園長の言い方に
「でも、高級車が並ぶ時間帯に徒歩の人がいるなんて、この明麗(めいれい)保育園の品位に関わると思いませんこと?」正子はすかさず追い打ちをかけた。
「そんなことは思ったこともありません。この保育園が世間様に認めていただいているのは園で育つ子供の資質です。元気で明るくて思いやりのある子を育てていきたいというのが当園の切なる願いです」依然として立ち位置を変えることなく、園長は淡々と話した。
「それはそうですけど……」
「綾ちゃんとお母様が手をつないで楽しそうに登園してくる様子を見たことはないですか。あのお母様には深い愛情を感じますね……」園長は意識的に理穂親子を引き合いに出した。
「いえ、その斎藤さんですけどどこかのお好み焼屋さんらしいですよ!」
「それがいけないのですか? お好み焼屋をしている家の子供はこの園に来てはいけないのですか。そんな規定はありませんよ。国会議員の子どもも、サラリーマンの子どもも、お好み焼屋さんの子どもも、皆同じ、皆大事な園児ですよ」
少し顔色を変えた園長であったが、最後は静かに締めくくった。
「私は納得できません、品格のある保育園だから息子を入園させたのに、主人に話してみます」正子は相当に激怒していた。
「そうですね、子どもさんの教育についてはご夫婦でしっかり話し合われた方がいいですね」
「そういう意味じゃありません!」彼女は言葉を吐き捨てるように言うと退室して行った。
斎藤家を演出する人
その日、三時に綾を迎えに行った理穂は、園長に招かれ部屋に入った。
「どうですか? 少しは慣れましたか? いろいろなことがあったから大変だったでしょう。だけどあなたを見ていると大丈夫っていう感じがしますよ」
「あっ、ありがとうございます」構えていた理穂だったが、思いもよらない園長の言葉に彼女は慌てた。
「一部のお母様方の中にはあなたが徒歩で通園することを快く思っていない人がいるようですが、気にすることはないですよ。あなたと綾ちゃんが手をつないで楽しそうに通園してくる姿をよく見ますが、あなたの深い愛情が伝わってきます。綾ちゃんが明るくて朗らかなのがよくわかります。私はあの光景を皆さんに見て下さいって言っているんですよ」
「えっ、そうなんですか」
「そりゃそうですよ、あんな幸せそうな親子の姿はないですよ」
「ありがとうございます」
「それからお姑さんも、最近は元気そうで何よりですね。先日、綾ちゃんの入園のことでお越しになられて、久しぶりにお会いして、うれしかったです。あなた達のおかげでしょうね……」
「いえ、そんなことは……」
「和也さんやエリカさんの頃からのお付き合いなんですよ」
「はい、和也さんから聞きました」
「和也さんがここに初めて来たのは、確か三歳だったかな、実のお母様を亡くされて、玲子さんはまだ大学生だったかしら、周りのお母さん方から一生懸命に話を聞いて、頑張っていましたよ。玲子さんは、和也さんを穏やかにと言うのか、おおらかにと言うのか、上手く言えないですけど、何か心を大事にする子に育てようとしていましたねー、私は玲子さんとちょうど一回り歳が違うんですけどね、当時はよく一緒にお話しをしました。結婚の相談を受けた時は驚きましたけどね」
「えっ、園長先生は結婚した理由をご存知なんですか?」
「ええ、もちろん、ご主人は私の同級生なんですよ、私は二人から相談を受けましたよ」
「あっ、ちょっとすいません、お義母さんが心配するといけないのでメールだけ入れておきます」
「そうね、青い顔して飛んで来たら困るものね」
「はい、すいません。でも斎藤の家では、義父もエリカさんも、お義母さんが和也さんのために結婚したと思っているみたいです。それを聞いて私はお義母さんの人生が気の毒になりました……」
「もう時効だからお話ししますけどね、どちらも魅かれていたんですよ、真一さんは男のくせに優しい人でね、けなげに息子の世話をしてくれる玲子さんに心惹かれていたんですよ。好きになるって言うのはああいうことなんだろうなって思うんですよね。何が好きなのって聞いてもわからないんですよ、顔でもない、スタイルでもない、まして性格なんてきつい人ですからね、玲子さんは…… だけど一回りも歳下の女の子ですよ、それでも好きになったんだからどうしようもないですよね。だからプロポーズしなさいって言ったのよ」
「そうなんですか、すごい、初めて聞きました」
「それで玲子さんの方は、確かおじいさまから、自分の人生を探しなさい、縛られることはないって言われて、出て行こうと考えていたのよ」
「えっ、魅かれていたのにどうしてですか?」
「彼女は、自分のような施設で育った人間が、和也さんの母親になったり、真一さんのように社会的地位のある人の奥さんになってはいけない、和也さんや真一さんがいやな思いをすることがあるかもしれないって考えていたの……」
「そうですか…… そんな思いが生まれるんですね」
「だけどね、そんなこと抜きでどうなのって聞いたら、和也さんの母親になりたい、真一さんの妻になりたい、お祖父ちゃんだってガンを宣告されていてそんなに永くないのに最期まで面倒見てあげたいって言うのよ」
「やっぱり…… 私もお義母さんはお義父さんに魅かれていたんじゃないのかなって思っていたんです。」
「そうなの? それが解るってすごいわね……」
「そんなことはないんですけど…… 確かにお義父さんに対してはきつい言い方をするんですけど、ほんとにいやだったら、言い方の質が違うって思うんです。あれはお義父さんが受け入れてくれることがわかっているからだと思うんですよ」
「あなたはすごい、静かで穏やかで、おっとりしているように見えるけど、実は鋭く賢い女性ね……」
「えっー、それは褒められているんですか?」
「もちろんよ、何となく昔の玲子さんを思いだすわ……」
「そんなー、あっ、それで園長先生はなんて?」
「そりゃ、あなた、愚かだって言ったわよ、真一さんと和也さんを馬鹿にしているって言ったの…… 」
「えー、どうしてなんですか?」
「和也さんが大きくなって、自分の母親が施設で育ったんだって知って、彼がそのことを嫌がる、そう言っているんでしょ? 和也君はそんな大人になるのって聞いたのよ、真一さんだって同じ、その愚かな考えのためにお祖父ちゃんまで入れて四人が不幸になるかもしれない、だけどその愚かな考えを捨てれば四人は家族になれる、幸せになれるって言ったら微笑んで帰って行ったわ」
「ありがとうございます。園長先生のおかげなんですね……」
「だけど、一つだけ忠告したの『あなたは気持ちを殺したり、遠慮したりしないで思ったことを言いなさい、真一さんは絶対にそれを受け止めるし、それが彼の幸せだし、彼の愛なんだって……」
「すごい、なんかすごいですね、でも私にはちょっと難しいです」
「あなたは正直な人ね、言った本人もよくわかっていないのよ」
「えっー」
「だけどね、玲子さんがあの家で幸せになるためには、何かを我慢したり、周りに気を使ったりするべきじゃないって思ったのよ、だから後は真一さんに、何があっても受け止めなさいよっ、一回りも若い奥さんをもらうんだからって言い聞かせればいいと思ったの」
「ほんとに尊敬します。お義母さんがここの保育園じゃないとだめって言ったのが解ります。何よりうれしいのはお義母さんが幸せだったことがわかったことです。ほんとにありがとうございます」
「その時にね、真一さんに作ってもらったのが、あそこにある総合遊具なの、昨日電話があってその遊具を作り替えるんだって…… 昔の時は、お礼しなさいよって恩着せがましく言ったけどね、今回は何も言っていないのよ、でも綾ちゃんが錆で手でも切ったら、玲子さんに何言われるかわからないからって言ってた。楽しい夫婦でしょ……」
「園長先生に言われてわかりました。あの二人はほんとは楽しい夫婦なんですね、うれしいです。それからもずっとお付き合いいただいているんですね」
「そうなのよ、ついでにもう一つ教えてあげる……」
「えっ、何かまだあるんですか?」
「そんな大したことじゃないんだけどね、ある日、真一さんが来てね、玲子さんにもう少し
おしゃれをして欲しいって言うのよ……」
「えっ、もっときれいに着飾れってことですか?」
「まあ、そうなんだけどね、社長の奥さんともなると、色々なところへ顔を出すことになるでしょ……」
「ああ、それはそうですよね」
「だけどね、彼女は大学時代から子育てしているんだから、外見を飾るなんてことには全く興味がないのよ、あんな美人なのに、化粧もしないし、せめてもう少し、と思って真一さんが泣きついてきたのよ」
「えっ、でも……」
「だから、私が一枚かんだのよ……」
「へえー、すごいですね、化粧しなさいって言ったんですか?」
「そんなこと言っても聞かないわよ、だからね、男の子はきれいなお母さんだとうれしいのよって言ったのよ……」
「上手い、園長先生、天才ですね」
「そうでしょ、そしたら翌日から、お化粧だけでなく、服やバッグにも気を使いだして、その内にはエステにまで通って、正直、羨ましかったわよ…… もともと、きれいな人だから、磨けばすごいことになったのよ、今だってとても五十には見えないでしょ、どう見ても四十前後よね、」
「そうですね、すごいですよね」
「一番喜んだのは真一さんなのよ、お礼に来て何作ろうかって言うから、いいって言ったんだけど、その時に作ったのが、あのプール…… 」
「お義父さんも面白いですね……」
「そうなのよ、何かあるたびにここに来て、そのたびに何かつくって、ここの遊具はほとんど彼が作ったのよ」
「はははっはっ、それだけお義母さんを愛していたんですね……」
「だけどね、和也さんが出て行ってからの四年間は大変だったのよ……」
「そうでしょうね、エリカさんからも聞きましたけど、驚きました」
「もう、毎週やって来て、『はあー』ってため息ついて、激しい時には二日おきに来て『はあー』って、もう私も参ってしまって、暗くなるから来ないでって言ったら、『そうね、ごめん』っていって帰ったかと思ったらまた次の日に来て…… 一番玲子さんらしくなかった時期ね」
「ご迷惑おかけしたんですね」
「いいんだけどね、前へ進もうとしないのよ、だから最後には園長先生が乗り出したのよ」
「えっ、ひょっとして、お義母さんが寝込んでいたのは……」
「そう、私の作戦…… 寝込んだら絶対にエリカさんが動く、彼女が動いたら和也さんも絶対に一度は帰ってくる…… 帰ってきたら有無を言わさず一緒に住んでもらう…… 私のシナリオ通りよ…… 」
「ほんとにすごい、すごいとしか言いようがないです。まさか、お義父さんも丸め込んでいた訳では……」
「丸め込んだわよ、もし帰ってきたら勘当のことは絶対にとぼけなさいって、何があっても一緒に住むのよ、玲子さんを愛しているのなら死ぬ気で頑張りなさいって言ったのよ」
「はあー、なるほどそう言うことですか、全て上手く行き過ぎているなとは思ったんです。そう言うことだったんですか? 斎藤和也の帰還を演出した人がいたんですね、ほんとに恐れ入りました」
「あらら、玲子さんが来たわよ」
「えっ、わっ、もうこんな時間! 今日はとても楽しかったし、ありがたかったです、本当にありがとうございました」
「あなたにはね、あの斎藤の家の歴史を知っておいて欲しかったの…… でもあなたとお話しするのはとても楽しい、これからも仲良くしましょうね」
「こちらこそよろしくお願いします」
「でも、今日の話は二人だけの心に留めておきましょうね」
「ちょっと、二人で私の悪口を言っているんじゃないでしょうね」
園長室に入って来た玲子が二人を見つめて微笑んだ。
帰宅した理穂が
『栗山さん、お忙しいところすいません。もし衆議院の町野一郎ににらまれたら、斎藤グループは困りますか?』電話で尋ねると
『全然困りません、睨まれて困るのは向こうの方です。何かあったのですか?』栗山が尋ね返してきた。
『いいえ、大丈夫です。保育園のことなので、気にしないでください』
『奥さん、申し訳ないのですが、お話しだけ聞かせていただけませんか。
実は来週あたり町野がわが社にくることになっているのですが、どうもここ最近、以前の会長秘書と上手くやっていたこともあって、無理難題を押し付けてきていますので、ちょっとお灸を据えようかと思っています。
場合によっては他の候補者の検討もしたいと思っていますので、できれば奥さんの情報もいただきたいのです』
『わかりました』
理穂が全てを話すと
『そうですか、やはり夫が変わると妻もそんな風になってしまうんですね、初当選の頃とはえらい違いです。奥さんと綾ちゃんの私生活に口を挟むつもりはありませんが、何かあれば必ずご連絡下さい。私はあくまで町野一郎個人に向き合いますので……』
第八章 道を踏み外した者
とてもお偉い国会議員の妻……
その翌週の月曜日、いつものように楽しそうに綾と手をつないで園の入り口にさしかかった理穂に町野正子が
「斎藤さんでしたわよね」と声をかけてきた。
「はい、おはようございます」
「あなたのお家には車は無いのかしら……」腕組みをした正子が斜(はす)に構えて蔑んだように尋ねた。
「いいえ、ありますけど…… 」
「この明麗(めいれい)保育園は格式ある有名な保育園です。徒歩で通うのはどうかと思いますよ」
両手を腰に当てた彼女は理穂に向き合うと威圧的になってきた。
「そうなんですか…… でも特に通園手段は規定されていないと聞いていますが……」
「そう言うことじゃないのよ、世間一般の見た目の話をしているのよ! この保育園にふさわしくない方が通っていることを周囲の方々が知れば、この保育園の格が落ちるでしょ!」
正子は驚かない理穂に苛立っていた。
「その周囲の方々って、どういう方なんでしょうか?」理穂は話していることがよくわからず、聞きなおしてみたが
「はあー」正子は呆れた様子だった。
「少なくてもここまでの道すがら、様々な方々と挨拶して登園していますが、いずれの方も笑顔で挨拶して下さり、あなたがおっしゃるような方はいないように思うのですが……」
できることなら争いたくない理穂が穏やかに、静かに答えるのだが
「そんな近所に住んでいる人だけじゃないのよ、この道を通勤で通う人だっているでしょ、そんな人が、みすぼらしい服装の母親が、この明麗(めいれい)保育園の制服を着た子供を連れて歩いていたら何て思うかしらね……」
正子は懸命に冷静さを保とうと、再び腕組みをして斜に構えた。
「何とも思わない…… と思うのですが……」理穂は応えに困っていた。
一見すると、穏やかでおとなしそうで、見る人によれば天然なのかと思わせるような雰囲気を醸し出している理穂は、正子のような人種からすれば、責めやすく、言いやすく、虐めやすいタイプに見えるのは否めなかった。
しかし、理穂のすごいところは、何が起きようと、自分の認識では理解できない理不尽な人間を前にしては、絶対に立ち位置をかえないということであった。
「何ですって、あなたは私を知らないの?」
ついに切れた正子が、再び両手を腰にあてると理穂を睨み付けた。
「すいません、来たばかりで…… 知りませんけど……」
「何ですって、国会議員、町野さんの奥様よ、失礼でしょ!」
取り巻きの一人が目を見開いて睨み付けた。
もう俯いて泣き出すのではないかと思っている正子は、顔色一つ変えずに淡々と話す理穂に苛々していた。
「何が失礼なのかわからないんですけど……」理穂はもう相手にはしたくなかったが……
「それが失礼なのよっ、国会議員の奥様なのよ!」
「ですけど…… そんな風に言っていたら、誰も一票を入れなくなるのではないですか……」
「何ですって!」
「少なくとも、私はご主人には一票を入れたくないですけど……」理穂は、一瞬、正子をちらっと見て、頭を下げて前へ進もうとしたが
「何ですって、今の言葉忘れないでよっ!」
正子は、この女はもう泣き出すのではないかと薄ら笑いを浮かべていたのに、思いもよらない反撃にあって、それも静かに申し訳なさそうにそんなことをはっきりと口にされて、ついヒステリックに叫んでしまった。
「すいません、忘れてしまうかもしれません…… 」理穂は振り向きながらそう言うと再び歩き始めた。
「待ちなさいよ、皆さん署名を集めましょう!」
「それが良いですわ、そうしましょう」
「国仲さん、署名の素案を作って下さるかしら」
「いいえ、私はいたしません。もうあなたのそばにいることも止めます。子供に恥ずかしいような生き方はもう止めます。私のことも併せて署名を集めて下さい」
「待ちなさい、忘れたの? また昔みたいになってもいいの…… あなたの子どもを止めさすことなんて簡単なのよ、それでもいいの?」脅すような正子に
「お好きなようにして下さい……」彼女も意を決したように答えた。
「この方だけでなく、うちの娘も止めさせてくださいな…… 少なくても園長先生はあなたに従うような方ではないと思いますよ、国会議員のあなたのご主人にどんな力があるのか知りませんけど、園長先生があなた方に屈するとはとても思えませんよ…… 失礼します」
さすがの理帆も少し頭に来ていた。
矛先が国仲美鈴に向いたのを聞くと、理穂は再び立ち止まり正子に向って蔑んだように静かに言い放った。
「待ちなさいよ、二人とも覚悟しておきなさいよ、絶対に許さないから!」
その様子を窓から見ていた園長は、部屋を出ると建物に入って来た理穂達を迎え、
「おはようございます。朝からご苦労様でした」とすがすがしい笑顔で挨拶をした。
町野衆議院議員
町野一郎が斎藤グループを訪ねたのもその日の午後であった。
町野の第一秘書は、斎藤グループにアポの電話を入れた時に会長秘書の町田が異動になったことを聞き少し違和感を持ったが、新社長の就任のことは知っていたので、さほど気に留めることもなかった。
まだ三十歳過ぎのボンボン社長など、平身低頭して議員を迎えるだろうと安易に考えていた。
「おい、時間は言っているんだよな、誰も迎えが出ていないじゃないか! 」
入り口前に車がさしかかり、誰もいないことに気づいた町野が投げ捨てるように言った。
「はっ、申し訳ありません。何か手違いがあったのかもしれません」
「全く、何やってんだ、この会社は、秘書室長は誰なんだ?」
「はい、吉田と言う、アジア支局から帰って来た者です」
「海外にいて、私が幹事長の右腕だということを知らないんじゃないのか?」
「はあ、申し訳ありません。詳しくは話していないもので……」
「まあいい、ボンボンに一発かましてやろう」
そんな話をしながら、建物に入ると、ロビーで待っていた吉田が彼らを迎えた。
「ご苦労様です。秘書室長の吉田と申します」
「おい、こんな失礼なことはないだろう! 外で出迎えなかったのは初めてだぞ!」
「申し訳ございません、ちょっとトラブルがございましたもので…… 」
「まあいい……」
七階の応接室に通された彼は、そこにも誰もいないことにまた腹を立てた。
「どういうことだ、何故誰もいないんだ、町野がわざわざ来ているんだぞ、誰も控えていないなんてどういうことだ!」
「直ぐに社長秘書が参りますので……」
しばらくすると、社長秘書の栗山が入って来た。
「お待たせいたしました。社長秘書の栗山でございます。どうぞ……」
「社長はどうしたんだ……」
「社長は、所要がございまして、私がお話しをお伺いいたしますので……」
「なんだと、私を馬鹿にしているのかね、衆議院議員 町野一郎だぞ、幹事長の右腕と言われている男だよ、その男を秘書が相手にするのかね」
「私ではご不満でしょうか?」
「君は社会というものが解っていないのかね、社長がだめなら、せめて専務か常務が出て来るべきだろう、それが政治家に対する礼儀と言うもんだよ」
「わかりました」
部屋を出た吉田室長が直ぐに常務に連絡を取って栗山に目配せした。
「常務がお会いするとのことですので、どうぞ、常務室の方へ」
「なんだと、私が行くのか?」
「はい、お願いします」
「まあいい、この会社はどうなっているんだ、若い社長には荷が重いんじゃないか?」
常務の部屋へ入ると
「常務、久しぶり、元気にしてましたか?」上から目線で町野が右手を差し出したが、常務はその手を取らずに
「まあ、どうぞ」そう言ってソファへの着座を促した。
「常務、びっくりしたよ、町野が三期の実績をぶら下げてわざわざ挨拶に来たのに、社長はいないし、秘書が私の話を聞くというし、この会社はどうなっているのかね、ボンボンの新社長には荷が重いんじゃないのかね……」
「いえいえ、新体制になって、今、栗山が足場固めをしているところなんですよ……」
「……」
「お恥ずかしい話ですが、以前の会長秘書のように好き勝手していた社員もいましてね、栗山がやっと害虫駆除を終えて、新体制を確立しようとしているところです。それができれば、専務と私もやっと引退できます。首を長くして待っているんですよ」
常務が他人事のように話すと
「あの秘書はそんなことをやっているんですか?」慌てた町野が尋ね返した。
「ええ、社長から全権を委任されていますから、いまや会社のナンバー二ですよ…… いや社長も彼女には逆らわないのでナンバーワンかもしれないですね」
「それは失礼なことをした。直ぐにもう一度話がしたい、連絡してくれるか?」
「いいえ、それはご自分でなさって下さい。彼女は忙しい人間ですから私からは無理を言いたくないんですよ」
「常務、私に対してそういうことを言うんですか?」
「もうお引き取り下さい……」常務は静かに冷たい視線を彼に浴びせた。
「直ぐに電話しろ、ふざけやがって……」部屋を出た町野は吐き捨てるように言った。
『もしもし、町野の秘書ですが、もう一度栗山さんにお会いしたいのですが……』
『栗山は既に次の接客をしていますので、もう時間をお取りすることはできません』
『何を言っているんですか? 町野がお会いしたいと言っているんですよ、直ぐに時間を作って下さい』
『それは難しいです』
「ちょっと代われ…… 」『町野だ、社長秘書ともう一度話がしたい』
『先ほども申し上げたのですが、栗山は既に次の接客をしていますのでもう時間は取れません』
『何だと、この町野を愚弄(ぐろう)するのか?』
『どう思われてもかまいませんが、最初に栗山を拒否されたのはあなたでしょ。栗山は忙しいのにあなたが来るからということで、わざわざ時間を割いたのですよ、でもあなたは彼女を拒否して常務がいいとおっしゃったから、お望みどおりにしました。何の不満があるんですか?』
『それは、お前、彼女が全権委任されてるなんて知らなかったんだから仕方ないだろう』
『あなたは支援母体の事情も知らないまま乗り込んできたんですか。関係者は皆さんご存知のことですよ』
『何だと、下手に出ていればいい気になって、この私を怒らせるんだな!』
『もう忙しいので切りますよ、前会長秘書があなたとグルになって、下請けやら関連会社に無理強いしてきた寄付金やら、バックマージンやら、今聞き取りをしているところなんですよ。次から次へと大変なんですよ、来年の総選挙は頑張って下さい』
『ちょっとまて…… くそっ、切りやがった』
「先生、どうしたんですか? 何か様子がおかしいですね……」
(これはまずいなー、町田だ、そうだ町田に会ってみよう)
「おい、町田はどこに異動したんだ? 直ぐに調べろ」
「はっ、あのすいませんが……」
第一秘書は通りすがりの男性に声をかけた。
「何でしょうか?」
「以前、会長秘書をされていた町田さんはどこへ異動されたのでしょうか?」
「あっ、彼でしたら、そこのエレベーターで地下へ行かれたら、資料室がありますので、そこの室長をしています」トイレに向う途中の和也が答えた。
「ありがうございました」
和也は親切にエレベーターのスイッチを押し、彼らが乗るまで開放を維持したが、町野は見向きもしないで、もちろん頭を下げることもなくエレベーターに乗り込んだ。
彼は ( 衆議院議員の町野だな…… 何していたのだろう……) そんなことを思いながらトイレに向った。
一方、地下へ降りた町野は資料室のドアをノックすると、返事のない部屋へ入って行った。そこには机に向かったまま、座ってこちらを見ている町田がいた。
「おい、会長秘書、何があったんだ! こんなところで何しているんだ……」と声をかけると
はっと気が付いた町田が、
「先生、久しぶりです。来年の足場固めですか?」尋ねたが
「そう思ってきたのだが、様子が変わってしまって、どうなっているんだ……」町野は途方に暮れているようだった。
「ごらんのとおりですよ」
彼は、事のいきさつを一部始終、町野に話した。
「まいったなー、私も社長不在で秘書が出てきたから、常務のところへ行ったら、あの社長秘書が全て仕切っているって言われて驚いたよ。もう一度会いたいって言ったのに電話を切りやがって、ふざけているよ。思い知らせてやるよ」
「どうやって思い知らせるんですか?」
「何か弱みは無いのか、何かあればお前だって何とかしてやることができるぞ……」
「私が知っているのは、あなたと私の悪行だけですよ……」
「おい、俺は何もしていないぞ!」慌てて町野が否定する。
「今さら何を言っているんですか、往生際が悪いですよ……」
「おい、この弁当のからは何だ? こんなものを食べているのか?」驚いた町野が尋ねた。
「笑われるんですよ……」
「えっー、誰が?」
「外で飯食っていると、周囲の奴らが私を見てこそこそ言って、あざ笑うんですよ……」
「それは考え過ぎだろう」
「いいや、周りの者は笑っているんですよ、だから朝、会社に来る途中で弁当買って、ここに来たら、もう外には出ないんですよ。こんなことなら、アジアの方がまだよかったですよ……」
「そうか、お前がそんなことを思うなんて……」
「あの女をなめるととんでもない目に合いますよ、とことん来ますよ、地の果てまで追いかけてきますよ……」
「わかった、幹事長に出てもらうしかなさそうだな……」
「あの女はそんなに甘くないですよ、彼女をなめていたらほんとに足元をすくわれますよ……」
「たかが社長秘書じゃないか、幹事長が電話一本入れればびびるだろう」
「どうですかね、まあお好きにどうぞ、私はここでおとなしくしている限り個人的な賠償請求をされることはありませんが、あなたはわからないですよ、私のやったことは全て調べ上げていますからね……」
「まあいい、元気を出せ、その内に何とかしてやる……」
「ありがとうございます。期待しないで待ってますよ……」
坂道を下っていく夫婦
彼は議員会館へ引き上げると、明日の朝一番、午前一0時に幹事長の約束を取り付けた。
一方、栗山は吉田に幹事長へのアポを取るように命じていたのだが、彼女自身は斎藤グループがこれまでに民自党から煮え湯を飲まされたことがあっても恩恵を受けたことはなく、今後の支援は打ち切ってもかまわないと考えていた。
しかし吉田から連絡を受けた幹事長の第一秘書はさすがに栗山の噂を耳にしていて、彼女が社長から全権委任を受けていることも知っていた。
そのため、彼女の訪問を最優先で受け、その日の五時に議員会館近くの会議室で会うことを約束した。
挨拶を済ませた栗山が話し始めた。
「幹事長、私どもがこれまで支援させていただいた町野議員は、私どもの前会長秘書と共に、関連企業などからバックマージンを受け取ったり、寄付を無理強いしたり、この四年間で相当なことをなさっています。これが一覧表です。全て関係者から確認をとっております。私個人といたしましては直ちに損害賠償の請求を行いたいと考えておりましたが、社長の方から、一度幹事長にという指示がございましたので、取り急ぎご報告にあがった次第でございます」
「君は噂通りの切れ者のようだね、どうだろう一度だけ見逃してやってはもらえないだろうか?」
「申し訳ございませんが、それは困難と考えます」
「そうか、わしが頭を下げてもだめかね?」
「申し訳ございませんが……」
「そうかね、じゃあ斎藤グループは今後、民自党の幹事長を敵に回すということだね」
「幹事長、お言葉を返すようですが、斎藤グループは昨年の制度改正で一度煮え湯を飲まされたことがございます。が、これまで民自党から恩恵に預かったことは一度たりともございません。幹事長が敵になるとおっしゃるのであれば致し方ございませんが、斎藤グループに痛手を負わしても何の利もございません。幹事長ともあろうお方が利にならないのに無駄な労力をお使いになるとは思いませんが、それでも私どもはもし火の粉が降りかかれば全力で戦ってまいりますのでご理解をいただきたいと存じます」
「はははっはっ、大したもんだ、この私を相手にしても憶することなく、逃げ道がないように押し込んでくる…… 斎藤の若社長のことはよく知らんが、君を右腕としているのを見るだけでも相当な人物と見た。斎藤はまだまだ成長するなー、久しぶりに君のような人に会えてうれしいよ。どうせ、私がもうひと押ししても、君は組合が押している労働党の話を出すんだろ? 無駄なことは止めよう、どうすればいいんだ? 町野以外の者を公認すればいいのかな?」
「そこまでしていただけるのであれば、私どもは引き続き民自党の支援をさせていただきます」
「わかった、その代わり損害賠償の請求は止めてくれるね?」
「もちろんです。そこまで譲っていただいた幹事長のお顔をつぶすようなことは決していたしません」
彼女が退室すると
「すごいのがいるなー、女にしておくのはもったいない」
「まだ五0前ですよ……」
「わしも総理になった時には彼女が欲しいなー、今の給料の倍払ってもいいがなー、何とかならんか?」
「斎藤グループの新社長は、相当な人たらしのようです。幹部連中のほとんどは彼に心酔しているらしいです。なかでも、あの栗山と言う社長秘書はアジアへ飛ばされそうになっていたところを新社長誕生とともに、部長クラスの秘書として、社長から全権を委任されたそうです。もうお金では動かないですね」
「そうなのか……」
翌日、午前十時に幹事長の所へやって来た町野は
「幹事長、斎藤グループなんですが、全くいうことを聞かないんですよ。民自党をなめていますよ。一発お願いできないですか?」
「はははっははっ、そりゃお前じゃ太刀打ちできんわな、私も昨日やられたよ」
「えっ、昨日、きたんですか?」
「ああ、やって来たよ」
「よく会いましたね?」
「そりゃお前、斎藤グループの支配人みたいな人間だ、会わないわけにいかないだろう、電話があって、秘書も断れなかったらしいよ」
「そうですか…… でも幹事長がやられるわけないでしょ……」
「いいや、完敗だったな、あれだけの人間はなかなかいない、私の片腕にしたいぐらいだ」
「幹事長、でも民自党をなめていますよ」
「なめているのは民自党じゃなくて、お前だよ」
「これを見てみろ……」
「訴訟にならないようにするのが精一杯だったよ、次の公認は無いよ」
「幹事長、助けて下さい、お願いします」
「難しいな、あの女とやり合っても一円の得にもならんし、たとえ勝ったとしてもこちらも相当な被害を被る。お前のためにそんなリスクは犯せない。斎藤グループとの和解がない限り、次の公認はないと思っていてくれ……」
「幹事長……」
「損害賠償の請求がないだけでもありがたく思いなさい!」
「くそー、どうすりゃいいんだ……」部屋を出て一言呟いた彼は家へ向かった。
「あなた、どうなさったの?」主人の打ちひしがれた様子に妻が尋ねたが
「……」彼は顔をしかめたまま返事をしない。
「あなた……」
「斎藤グループにやられた……」
「えっー、どういうこと? 支援母体でしょ!」
「ああ、だけど……」
「会長秘書の町田さんはどうしたの?」
「新社長が就任して社長秘書の栗山っていう女が全権を委任されて動いている。町田は資料室で飼い殺しだ……」
「えっー、それでどうしてあなたまで……」
「あの町田の口車にのって、寄付金を結構無理強いしたし、バックマージンもかなりもらった」
「あなた、何でそんなこと……」
「最初は知らなかったんだ、途中でわかったけどもう遅かった……」
「でも、斎藤グループだったら、まだ可能性があるわ。私ね、会長の奥さんと顔見知りなのよ、あの人のいい奥さんを丸め込めば何とかなるかもしれない」
「えっ、そうなのか、頼むよ、直ぐに行ってくれるか?」彼は一瞬、光が見えたような気がしていた。
「もちろんよ!」
電話で四時に約束をした町野正子が斎藤邸を訪ねると、約束通り玲子が待っていた。
彼女は全ての事情を説明し、会長秘書だった町田に騙(だま)されていたのだと説明した。
寄付金については、確かに強引にお願いしたこともあるが、決して脅かしたりはしていないし、バックマージンについては、町田と主人が山分けしたことになっているが、主人は食事の接待を受けた程度で、バックマージンのこと等聞いたこともないのだと説明をした。
「それはお気の毒ねー、何とかしないとね、ちょっとお待ちくださいね、息子の嫁に相談してみますから…… 理穂さんを呼んで下さる?」
(そんなわけないでしょ)彼女はそう思っていたが、近くにいたメイドに依頼すると、しばらくして理穂がやって来た。
彼女を一目見た正子は、心臓が止まるのではないかと思うほどの衝撃を受け、すぐに顔を伏せたが、意を決して再び顔を上げると
「先日は失礼しました。私はただ保育園のことを思って…… 本当に申し訳ありませんでした」彼女は深々と頭を下げた。
「いいえ、とんでもないです。あんなことは全く気にしていませんから……」
「何かあったの?」玲子が静かに尋ねた。
「いいえ、そんな大したことじゃないですから…… それよりどうかしたんですか?」
「あっ、そうそう、こちらが町野議員の奥さんだってことは知っているでしょ?」
「はい、何度かお話しもさせていただきましたので……」
「それがね、斎藤グループから来年の選挙では支援しないって言われたらしいの……
町田に騙されていたんですって…… どうしたらいいかしらね?」
「うーん、お義母さん、私も会社のことはよくわからないですけど…… でも、それは栗山さんが会社として結論を出したことですよね。その結論に対して私達、私人が意見を言っていいんでしょうか? なんか、栗山さんに失礼な気がするんですけど…… 」
「そう言われればそうねー」
正子はこの様子を祈るような思いで見つめていた。
「会社は、会社、私たちは私生活においては会社とは無関係なんだから、もし騙されたとおっしゃるのであれば、それは誠意をもって会社に説明すれば、わかってくれるんじゃないですか?」
理穂は正子に促すように言った。
「そうね、理穂さんの言うとおりね…… 町野さん、私たちではお力になれないわね、理穂さんが言うように、会社に誤解があるのであれば、会社に対して説明するべきね」
玲子も静かに正子に向き合った。
「あなたは私が言ったことを根に持つているんですね、だから力になってくれないんですね」
彼女は理穂を見つめたまま訴えるように話した。
「奥さん、お気持ちはわかりますけど、あなた方ご夫婦が選んだ道ではないのですか?」
「どういうことですか?」
「初当選の頃は、頭も低く、地域の方々にも細心の気配りをして、素晴らしいご夫婦だと伺ったことがあります。それが最近では、病院へ行けば横の入り口から診察室へ入り、最優先で診察を受ける、どこへ行っても待つことが嫌いで、ご主人の名前を出して平気で横入りをする。自分に対して気を使わない人を忌み嫌う。ご主人も最近では実った稲穂が天を向いてしまって、異見を言う者は容赦しない…… 会社へも相当に横柄な態度で来られるらしいですよ……これでは人としての道は閉ざされてしまいますよね」
彼女が屋敷を出た後、
「騙されていたなんてね、そんなわけないでしょ!」
「お義母さん……」
「あっ、そうそう何があったの?」
「あの人は私たちが徒歩で通園するのがお気に目さなかったみたいです」
「えっ、高級車じゃないとダメだって?」
「はい、さらに、みすぼらしい服装の母親が、明麗(めいれい)保育園の制服を着た子供を連れて歩いていたら保育園の品格に関わるって……」
「なんて人なの……」
「反論したら、国会議員、町野さんの奥様に失礼でしょって取り巻きの一人に言われたから、何が失礼なのかわかりませんけど、私はご主人には一票を入れたくありませんって言ったら署名を集めるとかなんとか言いだして……
園長先生の所へも言った筈です。この前、気にしないでって言っていましたから……」
「そうなの…… あなたよく平気で話できたわねー、私がそのこと知ってたら、噛みついていたでしょうね」
玲子はかなり憤慨しているようだった。
その翌年の四月、理穂は男子を出産した。
出産前から、綾の世話やら、理穂の心配やら、昔とは異なる気ぜわしさに玲子は幸せを感じていた。
この頃から玲子の真一に対する態度も一変し、理穂はまた園長が何か言ったのだろうかと微笑んでいた。
一方一0月の選挙に向けて最後までもがいた町野は、わずかに残ってくれた父の代からの後援会メンバーの提案によりひそかに労働党への鞍替えの話を進めていたのだが、労働党執行部が最後の最後に斎藤グループの組合を通して栗山に意見を求めてきたので、彼女は
「当選後に逮捕されたら洒落にもならないでしょ」と答えた。
このため、この話は白紙撤回となった。
第9章 理穂の道
理穂は、五年前、和也が初めて店にやって来た日のことを思い出していた。
夜空を見上げながら
「お祖母ちゃん、あの時、水面(みなも)に小石が落ちてきたんだね……
その波紋を見つめて和也さんと一緒になりたいと思って、結婚して、こんな大きな家に住ませてもらって、今では社長夫人だよ……
どうするのよ、これからどうすればいいのよ…… どうやって生きて行けばいいのよ……」
不安の中で囁(ささや)いた時、祖母の声が聞こえたような気がした。
多くの信頼できる人に巡り会ったでしょ……
道を踏み外した人の人生もたくさん見たでしょ……
頑張りなさい……
完